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ゾルゲスパイ事件をご存知でしょうか?太平洋戦争前に来日したソ連のスパイであるドイツ人ゾルゲを首謀者とするゾルゲ諜報員が、戦争勃発直前に日本で多数検挙され世界中でニュースになりました。2003年には映画にもなっているので覚えている人もいるかもしれませんね。でもメンバーの一人であるヴケリッチをご存知の方は稀ではないでしょうか? スパイと言うよりは愛国者で有能なジャーナリストだったような気もしますが。今回はデンマーク人と日本人の女性と結婚して獄中で亡くなったヴケリッチをフォーカスします。
ブランコ・ド・ヴケリッチ Branko Vukelic(1904-1945年)助っ人指数★☆☆☆
オーストリア・ハンガリー領オシエク(現クロアチア)出身のユーゴスラビア人。ソヴィエト連邦のスパイとして日本へ入国。日本名は武家利一。有名なゾルゲスパイ事件で逮捕され、無期懲役で服役中に網走刑務所で獄死。語学堪能で人望も厚く、、、真偽不明ながら形だけの妻と来日し、その後日本人女性と結婚したりと、まるでスパイ映画の主人公のようなヴケリッチ。現在は大好きだった富士山を眺めながら奥様と眠っています。長男はオーストラリア在、日本で生まれた次男はセルビア在住。
ヴケリッチ来日までの経歴
ヴィケリッチは1904年(明治37年) 現在はクロアチアの第4位の人口の街オシエクで誕生します。父はセルビア系オーストリア・ハンガリー帝国軍将校、母はユダヤ系ハンガリー人。当時はハプスブルグ家のオーストリア・ハンガリー帝国生まれと言うことになります。第一次世界大戦の発端となりユーゴスラビア崩壊後もコソボ爆撃など紛争が絶えなかったバルカン半島、父はクロアチア内の飛び地セルビア人のクライナ人でありながら、後にプロテスタントへ改宗するというかなり複雑な環境で育ったようです。
クライナ人(第一次世界大戦以前):16世紀ころにハプスブルグ帝国(後のオーストリア・ハンガリー帝国)が進出してくるオスマン帝国に対する防衛上の理由からクロアチアに作った「軍政国境地帯」で、オスマン帝国領内から逃れてきたセルビアやボスニアからの人達が移り住んでいました。クライナとはスラブ語で「辺境」と言う意味。とにかく複雑な地域です。
その後、ザグレブ(現クロアチアの首都)に移住して、1923年(大正12年)にザグレブ美術学校(現ザグレブ大学)入学します。この頃に社会主義に興味を持ったようです。そして翌年には既に社会主義の工作目的でチェコスロヴァキアのブルノ工科大学建築科に留学しています。1926年に母と兄弟3人を連れてフランスに移住。パリ大学法学部(ソルボンヌ)へ入学します。1930年に、ソルボンヌ在学中に知り合った年上のデンマーク人女性(エディット)より妊娠を告げられ、エディットからの「他に結婚したい人ができたら身を引くので法的に息子の父になって欲しい」との要求を受け入れ、別居したまま婚姻届けを出し30年、長男ポール誕生します。
そして1932年コミンテルン(国際共産主義運動の指導組織)と接触し、ルーマニアか日本へ行き情報収集する任務を打診されます。ヴィケリッチ28歳となっていました。
マルチリンガル
クロアチアは第一次大戦後はオーストリア・ハンガリーが崩壊してセルビア クロアチア スロベニアが連合して王国(1929年にはユーゴスラビア王国に改名)を作るもセルビア主導にクロアチアは反発するなど昔から複雑な地域でした。
すでに学生の頃より共産主義と触れていたヴケリッチですが、ソルボンヌ大学など優秀な大学で学んでいます。しかもラテン語、ドイツ語、フランス語、ハンガリー語、チェコ語そしてイタリア語(後には日本語も)に堪能で、語学の才能もあったようです。個人的に思うのですが、複数の語学に堪能な人は、洞察力が優れていると思います。なのでスパイには向いていたのでしょうね。
フランスの写真雑誌「VU(ヴュ)」やユーゴの日刊紙「ポリティカ(Politika/現セルビアの日刊紙)」の特派員として、マルセイユを出発し日本を目指します。
ヴケリッチ来日
妻のエディット
1933年2月、横浜に法律上の妻エディットと到着。組織よりエディットを妻として連れてゆくよう指示され、エディットは体育教師として同行します(息子はデンマークの祖母宅に残します)。息子の為に婚姻を望んだと思っていましたが、息子を置いて日本に来たわけです。実はそうではなかったのでしょうか?それとも組織に脅されたのでしょうか?
デンマーク体操
日本では当時デンマーク体操が流行していました。維新後にすぐ軍隊でドイツ式体操が取り入れられ、一般の学校では1878年にアメリカ式、その後1913年から1941年までスウェーデン式が採用されていました。デンマーク式は、スウェーデン式を基本に柔軟度促進を目的とした体操で、日本ヘは1931年に玉川大学の招きで指導者が多数来日し各地で実演されていました。まさに旬の体操?組織はしっかり調査をしていたのですね。
ゾルゲ来日
両社に記事を寄稿しつつ仏語の家庭教師などを行い、33年9月のゾルゲを来日を待ちます。11月には居を牛込区市谷左内町の一軒家に移します。当時の陸軍士官学校(現防衛省)の裏辺りですね。ここには無線発信所、写真を現像、マイクロフィルムにするための暗室などがあり、まさにアジトとなっていました。
1935年にフランスのアヴァス通信社の特派員となり、以後はアヴァス通信社での仕事が多くなってゆきます。
アヴァス通信は、当時世界有数の通信社で後のこれまた有名な通信社AFP通信の母体となった会社です。その時の彼の上司はロベールギラン。当時アヴァス通信は日本の同盟通信社と同じビルに入居していたので、日本の記者からも様々な情報を得ることは何のことはなかったでしょう。同盟通信社というのは日本の社団法人で全世界に5,000名以上の通信員を抱えていました。ゾルゲは後に、ヴィケリッチから得る同盟通信社の情報はとても重要だったし興味があったと記しています。ヴィケリッチの国際ジャーナリストとしての手腕には目を見張るものがあったのでしょう。
山崎淑子との結婚
1935年3月、水道橋の能楽堂で能を観劇した際、隣席にいた二十歳の津田英学塾の学生だった山崎淑子と知り合い交際を始めます。彼女は駒込の商家のお嬢さんで、出会って僅か4か月後に彼はプロポーズをしています。そして40年に結婚をすることとなりますが、39年頃に自らが共産主義者であることを淑子に告げ確認しています。またマイクロフィルムの隠し場所にハラハラしたと後述していますのでスパイを承知で結婚をしたこととなります。命がけの恋と言ってよいでしょう。片やエディット、彼女は当初の約束通り身を引いて離婚したとなっています。
淑子との結婚にゾルゲは反対しましたが、最終的にソ連の本部にも認められます。
長男ポール・ヴケリッチの回想。
実はエディットは1936年、デンマークの母に預けた息子のポールを引き取りに行き日本に戻ります。ポールが6歳時です。目黒に住みアメリカンスクールへ通ったり軽井沢の別荘へ行ったりと豊かな暮らしをしていたとのことです。子供のことが気になるのは当たり前ですよね。来日から3年間、エディットは我慢したのでしょう。そしてまたヴケリッチのいる日本へ戻ったという事実。これはヴケリッチとの関係は実際にも夫婦だったのでは?と思ってしまいますね。
第二次世界大戦へ
アヴァス通信のジャーナリストとして
1939年(昭和14年)ノモンハン事件が起こります(ソ連と日本がモンゴルの国境付近で起こした非常に大規模な紛争)。ヴケリッチは帝国陸軍情報部より外国通信社から一名ずつ選ばれる代表として(つまりアヴァス通信の代表として)戦線視察に赴きました。ヴケリッチはゾルゲに送る情報収集の他にアヴァス通信へ日本が大苦戦したという実際の戦果を送り、日本の新聞社から取材を受けたときには陸軍発表に近い内容(日本軍の勝利)を語っています。
この年の8月には独ソ不可侵条約締結交渉のニュースをフランスの本社に打電し、スクープとなり表彰を受けています。そして9月にドイツ軍がポーランド侵攻。第二次世界大戦が始まります。
1941年3月に淑子との間に息子の洋(ひろし:ユーゴスラビア名・ラヴォスラヴ)が誕生します。昭和16年、太平洋戦争が12月に起きた年です。
同年4月ナチス・ドイツがユーゴスラビアに侵攻。クロアチアはセルビアとそりが合わずナチス傀儡の国を建国していましたが、淑子に「故国に帰ってドイツを相手にパルチザン戦を戦いたい」と話したそうです。
同年5月、諜報団はドイツのソ連侵攻を察知しモスクワに報告するもソ連の書記長スターリンは関心を示しませんでした。そこでヴケリッチはアメリカの新聞に報道させることで信憑性をアピールしようと考えます。でもニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙はこの情報を目立たない見出しで掲載したため思った効果はありませんでした。
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