アーネスト・サトウの3回目です。初めての方は、まず1回目をどうぞ。


駐日特命全権公使
サーの称号
1895年5月駐日特命全権公使に任命されます。
同年6月 ヴィクトリア女王より聖マイケル・聖ジョージ勲章を賜り、7月日本へサトウ卿として着任します。画策から11年、サトウの願いが叶いました。ここから離任までの5年間はサトウにとって第二の”正に生きていた”トキになったのではないでしょうか。
中禅寺湖への思い入れ
サトウは着任早々、日光中禅寺湖へ向かいます。1872年に初めて中禅寺湖を訪れてからサトウはそのたたずまいに惚れ込んだようです。なんと鹿鳴館(ろくめいかん)を設計したコンドルに自分の別荘を湖畔に建てることを依頼します。そして彼の別荘は西欧の社交場となってゆきます。あのイザベルラ・バートも立ち寄っています。後に英国中禅寺湖別荘となるのですが、これをきっかけに欧米の大使館別荘が建ち並び「夏は外務省が日光へ移る」とまで言われるようになります。武田家の別荘も近くに建てて家族を呼び、後に植物学者で「尾瀬の父」とも呼ばれる次男、武田久吉もここで父サトウと登山や植物に触れることとなります。
現在サトウの別荘は栃木県に寄贈され「英国大使館別荘記念公園」として公開され、サトウの遺品や手紙などが展示されています。
千鳥ヶ淵の桜
1898年大使館内の庭にサトウが桜を植樹したのがきっかけとなり、その後少しずつ桜は通り沿いへと植樹されてゆきます。当時は半蔵豪と千鳥ヶ淵はつながっていた(1900年に道路建設のため分断)ので千鳥ヶ淵へ桜が向かうのは自然ですね。1957年には千鳥ヶ淵公園に20本の枝垂れ桜を英国大使のエスラー・デニングが寄贈しています。
ナイトの称号
1900年~06年まで駐清公使。清では義和団の乱、日本では日露戦争が起こりました。その間に国王エドワードよりナイトの称号、日本からは勲一等旭日章を授与されました。そして高潔な職である英国枢密院顧問となるために英国に帰国。帰国途中に日本へ立ち寄りますが、63歳、これがサトウの最後の日本訪問となります。
晩年、キリシタン版
第二回ハーグ平和会議に英代表次席公使を最後に引退しデボン州に隠居します。デボン州はイギリス南西部の比較的温暖な場所で、デボン紀(4億年くらい前の時代、その時代の地層がこの地で研究された)で有名ですね。この地でキリシタン版を研究したり執筆活動を行っています。特に日本では忘れ去られていたキリシタン版について研究して著書をいくつか刊行して、明治時代の日本で南蛮ブームを呼びました。
そして1929年、同地で86歳の人生を閉じました。日本へ行くことを望んでいましたが後年は病のためか体力的にそれは叶わなかったようです。日本は既に昭和3年、日英同盟はその5年前に失効していたのでした。
キリシタン版というのは、16世紀に天正少年使節がヨーロッパらか持ち帰った
グーテンベルグ印刷機を使ってキリスト教関係の書物が17世紀に禁教となるま
で日本語で多く出版された書籍のことです。
意外なことですが、江戸時代初期の元禄時代でさえ「書物問屋」「地本問屋」
という書店が多くあり庶民にも人気だったとか。サトウはそれらの本屋で埋も
れていた膨大な古書やキリシタン版を購入しています。
まとめ
少年の頃に読んだ本がきっかけで遠く離れた激動の日本へ行き大活躍したサトウ。そして日本人の家族を持つこととなります。正式に結婚はしていませんが、母国でも生涯独身を貫きましたし、家族には多くの財産と生活費を欠かさず渡していました。2度英国へ留学した次男には桜の苗木などを持ってこさせたり、孫娘に会いたいなどリクエストしています。また妻の兼は500通ものサトウからの手紙を残していました。母国では英国紳士として振舞っていましたが、サトウは日本のことをどのように思っていたのでしょうか。今の世ならイギリスと日本を行き来し、京都辺りに居を構えて晩年は大学の教授にでもなり日本通としてTVでも引っ張りだこだったかもしれませんね。それとも意外と引っ込み思案で、後年にその偉業が認められたりして…などと思わず妄想してしまいます。
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