フライングタイガースそして太平洋戦争で活躍した米軍のエースパイロット。南太平洋ラバウル上空で零戦に撃墜され捕虜となって終戦まで日本で過ごし、終戦後は解放されて米国では英雄となり講演会や自叙伝出版など大忙し。
そんな中で日本と米国が近いうちに仲良くなると予言した不思議なエースをフォーカス。
フライングタイガース コルセア 米軍のエースパイロット グレゴリー・ボイントン Gregory Boyington(1913年~1988年)
グレゴリーは米国のアイダホ州に1913年に生まれます。幼少時に両親は離婚し母方に育てられ母は再婚しグレゴリー・ホーレンベックとしてアイダホ州のセントメリーで育ちます。アイダホ州はワシントン州のお隣です。そして1930年、西海岸随一の名門ワシントン大学(Unv. of Washington)で航空工学を学びます。米国は29年秋のNY株式市場大暴落から始まる世界恐慌の只中、卒業後は当時シアトルに本社のあったボーイング社に入社し結婚もします。33年頃が大不況の大底と言われているのでそろそろ明るい兆しも出てきたころででしょう。そして翌年1935年に米海軍航空士官候補生に志願しますが、当時既婚者は志願することはできませんでした。しかし実の父の存在をこの時に知り、実父の姓であるボイントンに改名して”独身者”として1936年海軍航空士官候補生となります。
ボーイング社 シカゴに本社のある世界最大の航空宇宙機器開発製造会社。1997年にライバルのマクドネル・ダグラスを買収して旅客機部門ではエアバス社とシェアを二分しています。創業は1916年でかつてはエンジンから機体製造そして運航まで手掛ける巨大企業でしたが1934年に独占禁止法により、エンジン製造部門(現ユナイテッドテクノロジーズ社)と輸送部門(現ユナイテッド航空)を分離しました。分割された3社はともにさらに躍進して巨大企業となったので、その先見性と経営のDNAは特筆すべきものがあったのでしょう。グレゴリーが入社したのはまさに分離されてしまった直後のボーイング、入社後一年で海軍に志願したのは、先行きに不安を感じたのかもしれません。
フライングタイガースへ
グレゴリーは航空士官候補生としての基礎を学んだ後、1939年、カリフォルニア州南部の基地、ノースアイランド海軍航空基地に配属となり空母レキシントン、ヨークタウンに乗組しています。この二隻は後の42年に太平洋で空爆により沈没した四隻の空母の中の二隻なので日本の海戦関連では度々登場する空母ですね。40年に中尉に昇進しますがこの頃より酒癖の悪さから職務に影響が出て閑職に追いやられ離婚もしてしまいます。
そんな時にフライングタイガースに参加します。「日本軍機を1機落とせば$500」という言葉に騙されたと言われていますが、離婚直後で金銭的に困っていたことは事実のようです。1941年9月のことなので太平洋戦争直前の話しです。
フライングタイガース:米国義勇軍(American Volunteer Group)、愛称フライングタイガース(中国名は飛虎隊)。中華民国の蒋介石の妻である宋美齢からの要請により中華民国空軍の顧問となった米国陸軍航空隊大尉のクレア.L.シェンノートが立案。日中戦争で日本軍に対抗すべく航空隊を米国からの義勇軍という形で、事実上米国政府が中国に派遣したもの。稼働し始めたのは日米開戦後のことなので義勇軍とは名ばかりのものとなりました。しかしパイロット100名と整備兵200名は戦前に集められました。その条件は、$500の支度金、給料はパイロットは$600そして1機撃墜することに$500のボーナスも支払われました。また義勇兵なので一旦は退役しなければなりませんでしたが、元の階級で米軍に復帰することも可能でした。今の円に換算すると500ドルは約500万円。命がけとは言え超好待遇。主力戦闘機はP-40 。
ビルマ(現ミャンマー)のラングーンから中華民軍国の拠点の重慶へ援助物資を送る援蒋ルート。そのルートを日本軍の攻撃から守るのが主任務でした。しかし開戦当時の日本軍の物量作戦に圧倒され、また義勇軍である意味もなくなったので、奮闘虚しく1942年7月に解散します。
グレゴリー達のフライングタイガースのカーチスP-40戦闘機 は、当時最新鋭だった日本の零戦に対して一撃離脱戦法と言う零戦とは格闘戦を挑まない戦法で大健闘します。しかし義勇軍は解散し、1942年11月に少佐として海兵隊に復帰します。
南太平洋戦線へ
1943年1月、南太平洋のガダルカナル島(現ソロモン諸島、日本軍が米軍を甘く見て大敗退した島。略してガ島でしたが兵站がお粗末で餓死する兵士が続出し餓島と言われました)やエスリトゥサンド島(現バヌアツ、当時米軍の一大拠点で兵士の休養所などにも使われていました)へ勤務します。餓島とエリトゥサンド島、43年の時点ですでに日米の圧倒的な差が出ています。
ところでここでもグレゴリーはお酒で問題を起こします。宴会で喧嘩負傷してしまい、前線任務から外されてしまいます。そこで自ら戦闘飛行隊「ブラックシープ」を結成し前線に復帰します。グレゴリーの地位は少佐ですから編成くらいはできたのでしょう。ブラックシープは戦闘機F4Uコルセアを使用し、初陣では零戦5機を撃ち落とすなど戦果を挙げます。そして日本軍の拠点ラバウルの航空隊と激しい戦いを行い、ブラックシープとともにグレゴリーの名は全米に知れ渡り始めます。
撃墜されて捕虜に
1943年はソロモン諸島の海域で活躍して、翌44年1月3日、ラバウル島上空で28機目の撃墜を記録した直後に零戦に撃墜されてしまいます。そして海に着水し漂流していたところを運良く(?)、日本の潜水艦に救助され捕虜となります。
因みにグレゴリーのいなくなったソロモン戦線でエースパイロットとなったのが、ロバート・M・ハンソンです。そうイーデス・ハンソンの実兄です。
捕虜となったグレゴリーは、途中自国軍の攻撃に遭い死にそうになりながらも、ラバウルや硫黄島を経て日本の大船捕虜収容所へ送られます。

大船捕虜収容所:正式名称は、横須賀海軍警備隊植木文遣隊(うえきぶんけんたい)。ハーグ陸戦条約などに規定されない施設のため、国際赤十字にはその存在を告知せず、管轄の海軍は正規の捕虜収容所ではできないような軍事機密を尋問していました。その後、捕虜は陸軍の捕虜収容所に送られました。なので米国などの捕虜はその存命を確認できず戦死報告された者も多かったようです。
グレゴリーは、大船捕虜収容所には1年以上収監され尋問を受けました。鬼畜米英の捕虜、そしてこの頃になると日本各地で爆撃の被害もあり、番兵などからはひどく理不尽な扱いを沢山受けたようです。絶望的な状況、そんな状況下でも、グレゴリーに優しく接した人も少なからずいたとのこと。通訳の人、炊事当番で一緒になった”おばさん”とは仲良くなったのだとか。少しは生きる希望も持てたのではないでしょうか。そして大森捕虜収容所に移送され終戦となります。
終戦そして帰国
終戦で解放され帰国したグレゴリーは海軍に復帰して中尉となり名誉勲章なども受賞します。しかしまたもやお酒がらみの問題を起こし、ほどなくして海軍を退役してしまいます。退役後も酒癖の悪さは治らず職を転々としますが、元エースパイロットで捕虜になって戻ってきた英雄として米国各地に招かれて講演会を行います。聴衆は、日本人はいかに酷い奴らで、というようなボイントンの言葉を期待していましたが、そうではなく、良いところ悪いところを客観的にユーモアを混ぜて聴衆に伝えました。そしてさらに、そんな遠くない将来、日本とアメリカは仲が良くなるだろうとも講演で発言して聴衆を驚かせています。当時は旧ソ連が台頭してきていたことと日本人の本質を見抜いていの冷静な分析をしての発言だったのではないでしょうか。
後年はお酒の問題も解消され、後に体験記「BAA BAA BLACKSHEEP」を書き米国のTVでドラマ化もされます。日本でも出版されて読むことができます「海兵隊コルセア空戦記」。
まとめ
グレゴリーはお酒の問題で度々問題を起こしますが、持ち前の行動力とユーモアで解決し前に進んで行きます。捕虜になって死にそうな目にも遭いますが、日本人を客観的に見て辛い捕虜時代を過ごします。それに先述の”おばちゃん”と仲良くなれたのは、グレゴリーの平等な目と気さくな性格があってのことでしょう。この”おばちゃん”には戦後、友人が訪日するときにお土産を託しています。
戦闘機乗りというのは、今も昔も優秀な頭脳と体力そして適性が求められます。エースパイロットのグレゴリーには並外れた戦闘機乗りとしての資質があったのでしょう。そしてそれは常に冷静でいられる能力があったということでしょう。グレゴリーの体験記は、客観的な目で見た当時の日本人を表現しているのがよく分かります。1988年75歳で永眠。グレゴリーの編成した航空隊の流れをくむ海兵隊の航空隊の隊長機には現在もグレゴリーの名が記されています。
コメント