ー敬称省略ー
ハワイ生まれの日系二世。高校教師から一転、日本のプロ野球選手となった眼鏡をかけた捕手。30歳からの入団で戦争直前から終戦前年の日本で大活躍。戦後も日本に滞在して監督としてハレの天覧試合を経験しています。そんなカイザー田中をフォーカス。
カイザー田中 助っ人指数★★★★ 阪神タイガース 天覧試合
田中は明治42年1909年に日系二世としてハワイで生まれ、ハワイ大学を卒業し高校の数学と物理の教師となります。学生時代からベースボールをやっていてポジションはキャッチャー。教師時代は野球部監督そして日系アマチュアのベースボールチームに所属していました。そして1937年(昭和12年)、高校時代に一学年下でバッテリー(投手と捕手)を組んでいた若林忠司に日本のプロ野球へ来ないかと誘われます。30歳になるかならないかの年齢でした。
若林忠司(わかばやしただし) ハワイ日系二世で日本のプロ野球タイガースの投手。プロ野球が存在しない頃の日本に親善試合目的で来日。当時大人気の東京六大学野球代表と対戦し大活躍。ハワイの高校卒業後に法政大学へ。大学卒業後しばらくして、発足したての大阪タイガース(後の阪神タイガース)に投手として入団しここでも大活躍。高校入学時にキャッチャーを希望していたが、すでにキャッチャーとして圧倒的な技量を持っていた一年先輩の田中義雄の存在に驚いてピッチャーに転身。引退後も日本のプロ野球に携わる。1964年野球殿堂入り。
日米関係
田中がタイガース入りを決めたころの日米関係は、排日移民法や日本の軍国化なので日に日に悪くなっていました。ハワイでも日米の緊張感は高まりつつあり、日本から来る日本人とハワイ日系人による密会が疑われていて、ルーズベルト大統領は秘密裏に捜査させていたほどです。実際に真珠湾を望める高台にある日系人経営の料亭に日本のハワイ領事館の武官がこっそり偵察していたと聞いたこともあります。昭和12年は日中戦争が始まった年です。
日米二つの国籍を所持していた田中は、米国政府より日本の国籍を持つ教師はその資格をはく奪すると言われるも、母は田中の日本国籍離脱を反対するなど、複雑な境遇にあったわけです。そんなことも日本の職業野球へと向かった理由の一つかもしれません。
また後輩若林は、日本の職業野球は米国のメジャーリーグのように成功することになるだろうから、その手伝いをしたいと言う思いを強く持っていたようです。当時の日本では東京六大学野球がダントツの人気でプロの野球を見下していた感があったようです。そんな思いから田中を強力に勧誘したのでしょう。
大阪タイガースへ
大阪タイガースの創立は1935年、翌36年4月にリーグ戦開始。そしてその翌年1937年に田中は入団します。因みに、36年は春、夏、秋と3季制。37年~38年までは春と秋の2季制でした。田中は37年の秋リーグから参加し7月に30歳となっていました。日系二世のハワイから来た元高校教師で眼鏡をかけた捕手。異色の助っ人選手の誕生です。背番号は12番。
1937年の秋リーグ入団でいきなり4番捕手として出場します。4番というのは打つ順番で、当時も今も一番打つ力のある選手が務めています。球団設立2年目とは言え、当時全7球団、まだまだ人気はなかったけれど、まずまずの精鋭の集まりだったはず。やはり田中の実力は抜きん出ていたのでしょう。そしてそれがそのまま当時の日米の野球レベルの差だったのでしょう。
前出の若林は高校の時点でメジャーリーグの一つ下のAAAリーグからスカウトされていて、その若林が捕手としての実力に脱帽したのが田中だったので、田中の実力はメジャーリーグ級だったのは間違いありません。
カイザー田中
田中は、田中義雄というよりはカイザー田中として知られています。カイザーはあだ名です。今でもカイザー田中が本名だと勘違いしている人がいる、、、いやそんことはないか、、、田中のことを現在知っている人は、田中のことはかなり詳しく知っているでしょうからね、、、話を戻します。当時の日本では本名だと思われていたようです。そして当時のハワイ日系社会ではドイツが人気だったようです。
戦前の実際の日独関係はドイツ軍は中華民国を支援したりと日独防共協定(1936年)頃までは微妙な関係でした。でも明治時代の日本はドイツをお手本にしたので、とても馴染みがあったのです。軍事、法制そして医学などです。旧制高校の寮歌の歌い出しの1,2,3は「アイン、ツヴァイ、ドライ」。それに平成の初めの頃までは診察カルテ(カルテもドイツ語)はドイツ語で記入していたようですし。
田中は大学の時にドイツ贔屓の演説をしたとか、野球の実力も突出していたので、皇帝のドイツ語「カイザー/Kaiser」となったとか、いずれにしろ当時の彼は日系人社会で人気があったのでしょう。ところで皇帝の英語はEmperorとかKing of king。因みにKaiserはCaesar(カエサル)の派生語、ロシア皇帝のツアーリーも派生語。サラダの王様と言われている米国で考案されたシーザーズサラダのシーザーはカエサルの英語読み。
選手として
1937年の秋リーグと翌年の春リーグ、田中の入団早々タイガースは2連覇します。強肩と強打でチームに貢献して、そして卓越したインサイドワークは黎明期の日本のプロ野球の発展に貢献しました。インサイドワークとは、キャッチャーとしてピッチャーを配球などで上手にリードすることです。これは和製英語。英語だとClever Playで、何となく英語の方がしっくりするような気もしますよね。クレバーな近代野球を日本に伝えたのが田中でした。そしてオールスター試合に相当する東西対抗試合に5度も選出されています。当時は飛ばないボールを使っていて、、、4本でホールランのタイトルが取れたりしました、、、ですから現在の成績と比較するのは難しいのですが、生涯成績は477試合、安打400本、本塁打5本、打率は2割4分7厘。あの伝説の豪速球投手沢村栄治をカモにしていたようです。そして戦局もいよいよ厳しくなる1944年のシーズン途中で日本軍に召集され引退。45年から米軍の爆撃が本格的になりますから野球どころではないにしろ、職業野球は、44年は11月まで行われ45年1月には正月大会が行われています。戦時中は贅沢は敵だとか散々いわれていましたが、野球は映画とともに当時の息抜きの一つだったのでしょう。それにしても選手のほとんどは召集されてしまいやりくりが大変だったようです。召集された田中は樺太(からふと/サハリン)や北海道でアメリカのラジオ傍受の任務を行っていて終戦を迎えます。ラジオの傍受から広島への原爆投下も当日にはどんなものかを知っていたようです。
監督として
戦後は進駐してきた米軍の札幌のホテル支配人や座間基地ゴルフ場の支配人など軍属の仕事を得ていました。その際に米軍からの指示により日本の国籍を捨たようです。生きるためには仕方がなかったのでしょうか。と言うことは記録上では戦争中は二重国籍だったということでしょうか。
1958年(昭和33年)のシーズンから59年の2年間、大阪タイガースの監督を請われて務めることになります。カイザーとあだ名がついていますが、皇帝というよりは皇帝を補佐する物静かな宰相に相応しかったような気がします。ジェントルマンで理論武装する監督、キャッチフレーズも「インサイドベースボール」あえて和製英語を使っています。若い選手には田中のベースボール理論はとても新鮮だったようですが、ベテランそれに球団社長からは人気がなかったようです。乏しい戦力なりの戦い方をして2年連続で2位はまずまずだと思うのですが、その地味な戦術がファンにも受け入れられず、田中も終盤には嫌気が差し2年で辞任することになります。タイガース恒例の内紛はこの頃から既にあったのですね。
天覧試合
1959年昭和34年6月25日プロ野球の天覧試合が後楽園球場で行われました。お住いの皇居から見えたナイターの明かりに昭和天皇がご興味をお持ちになられたので実現したようです。もちろん当時はドーム球場ではありません。対戦カードはジャイアンツ対タイガースです。田中が監督として指揮を執りました。プロ野球の天覧試合はこれが最初で、今現在(2020年)もありません。田中は宿泊先で試合前に2度お風呂に入り身を清め、選手の前で全力を尽くしましょうと伝え、感涙を流したそうです。残念ながら長嶋茂雄の劇的なサヨナラホームランにより試合は負けましたが、、、
勝ちたかったです。ホノルルの実家には、天皇陛下の写真が飾ってありました。父は神様ですと言っていました。君が代が聴こえてくると身体がピーンとしてきます。だから勝ちたかったです。
山際淳司「異邦人たちの天覧試合」 (角川文庫 「逃げろボクサー」より)
とインタビューで答えています。
時代や時代背景が全くことなりますが、私の周りにも両親は日本生まれの日本人で本人は外国生まれという知り合いが沢山います。日常の彼らは顔だけが日本人で中身は生まれ育った処の人。でも日本への愛国心とも違う日本をリスペクトしている気持ちを持っている人が沢山います。田中もそんな感じだったのではないでしょうか。
まとめ
タイガースの監督を辞め米軍座間のゴルフ場支配人に戻ると、一人の若いアメリカ人をスカウトします。それがタイガース初の日系人以外のアメリカ人選手マイケル・ソロムコです。その後は61年から67年まで幾つかのプロ球団でコーチや通訳を務め、再度座間基地に戻っています。

仮に心も日本人だったとしても生まれてから30年間はハワイで育っています。日本に来てカイザー田中と呼ばれ助っ人として扱われ、生活習慣もモノの考え方も違い戸惑ったことと思います。そして運命のいたずらか両親の祖国の側で生まれ育った国と戦うこととなってしまいました。召集先での任務は生まれ育った国のラジオの傍受です。圧倒的に米国が優勢だとわかってしまっていたでしょう。どのような面持ちで日本人の上官に傍受した内容を報告していたのでしょうか。
1985年4月のプロ野球開幕前、タイガースの21年ぶりの優勝を見ることはできず78歳で亡くなります。



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