ゾルゲ諜報団の壊滅 

大正-戦前

ヴケリッチをフォーカス、の二回目です。
一回目がまだの方はこちらを先にお読みください。 

-敬称省略-

ゾルゲの潜入 

ゾルゲ諜報団を組織

リヒャルト・ゾルゲはロシア人を母に持つドイツ人(1895年/明治28年生まれ)、ソ連の共産党員となり中国に潜入します。日本語、中国語を習得し1933年にナチス党員のジャーナリストとして来日。この時点で在日ドイツ人随一の日本通となります。この辺りはヴケリッチと共通していますね。語学が達者で日本に詳しい人は要注意(笑)? そして在日中は共産主義者とは接触せずロシア語も話しませんでした。そして来日の目的は日本とドイツの動向を探ること。実はこの頃までには英国では彼をソ連のスパイだと特定していました。見て見ぬふりね、、、映画みたいだぁ。

1941年9月6日御前会議

当時のドイツ駐日特命大使オットは来日間もなく、アジア、日本の知識が不足していて、ナチス党員の日本通であるゾルゲに絶大なる信頼を寄せていました。オットとこれに加え尾崎秀実と言う近衛文麿のブレーンでもある日本人スパイを通じ、1941年9月、御前会議による南進決定(英米と戦う)と言う情報を得ます。これにより1941年10月のドイツ軍に対するモスクワ前面の攻防戦へ向け、満州の冬装備の精鋭部隊をドイツへ送り込むというドイツと日本にとっての運命を握るような情報を入手します。

近衛文麿(このえ ふみまろ)は、当時第三次近衛内閣で首相でした。鎌倉時代に成立した五摂家の一つ近衛家30代当主で公爵。ゾルゲ事件が発覚後に近衛内閣は総辞職して事件の関与を疑われましたが、米国との開戦もあり不問となりました。戦後にA級戦犯として出頭する前日に服毒自殺。元首相で熊本藩主の肥後細川家18代当主の細川護熙(もりひろ)。

ゾルゲ事件発覚

日本の南進決定

日本は北のソ連へ進出する、又は南の東南アジアへ進出する(米英と対決)のどちらを選択するのかを探ることがゾルゲ諜報団の主な任務だったはず。でも御前会議後に速やかに日本を出国するということはしませんでした。新たな任務があったのでしょうか?ただし、ヴケリッチやゾルゲ達は日本脱出については常に考えていたようです。そして緊迫し始めた状況でも、船員にでもなりすませば簡単に脱出できると楽観視していたようなのです。

ヴケリッチの逮捕

日本の特別高等警察(特高)は、以前より東京からソ連方面への不審な電波を察知していて、1940年半ばころにはゾルゲ諜報団に関する調査を始めています。そしてマークしていたアメリカの共産党員で日本在の北林(9月27日逮捕)や宮城(10月10日)などから足が付き始めゾルゲなど外国人スパイ存在が判明します。10月14日に尾崎、そして18日ゾルゲ、ヴケリッチ、通信員マックス・クラウゼンなど外国人スパイが逮捕となります。

網走刑務所収監

ヴケリッチは一か月ほど取り調べを受けた後、判決が出るまでの約2年半の間、東京の巣鴨刑務所に収監されます。そして44年4月に無期懲役の判決が確定され網走刑務所へ移送されます。収監中は妻淑子と手紙のやり取りは許されています。手紙は検閲されるわけですが、英文だと時間がかかるので日本語に切り替えています。収監当初、日本語の筆記は不十分だったようで先ずはカタカナそして漢字の書きを猛勉強し、驚くべきことに途中からは和歌まで詠んでみせました。何という語学学習能力!羨ましい限り。実際に手紙(写真で)見たのですが、次男にはカタカナで優しくかたりかけ、淑子には(自分のことは差し置いて)身体や金銭のことを気にかけたりと愛情あふれる言葉をびっしり日本語で書いていました。

関わった人たち

ヴケリッチ達の逮捕後、彼らの活動が大胆で日本の大物政治家やドイツ大使からジャーナリストや在日外国人まで多岐にわたっていたので、数百人の人が参考人となりました。それにしてもドイツ大使オットなどは逮捕後もゾルゲを信じ、外交筋を活用し釈放工作をしたほどでした。そして拘置所でゾルゲ本人よりスパイであると告げられ驚愕したそうです。ヴケリッチについては、上司であったロベール・ギランを含め皆一応に、好漢で素晴らしいジャーナリストそして彼がコミュニストであろうと、反ナチの世界平和の闘志だったことは認めざるを得ないというようなことを述べています。

高粱飯(コウリャンメシ)と獄死

網走刑務所へ移送後は刑務所飯となり、長期に渡る収監生活が身体を蝕んでゆきます。当時は高粱飯(こうりゃんめし)と言って匂いも味も消化も悪い囚人ご飯。西欧人のヴケリッチは口にすることはできなかったのではないでしょうか。日本の軍人も戦争末期は飢えを想定した訓練で食べさせられたようですが、慣れるまでは消化不良を起こしたとのことです。そんなことで網走移送後にすぐに慢性消化不良を起こし翌45年1月13日、急性肺炎で獄死します。淑子と面会した後に当地で火葬にされました。寒さも想像を超えたことでしょう。あと数か月我慢できれば終戦、残念です。
遺骨は東京の宣教師館(世田谷区太子堂)に置かれていました。当時はニコライ堂を追われた府主教セルギイの祈祷所となっていて、セルギイは二人の結婚式を司式していました。しかしこの祈祷所も空襲により焼け、遺骨を見つけることはできませんでした。

戦後

戦後25年の顕彰

1965年1月、ソヴィエト連邦はヴケリッチそしてクラウゼン夫妻と共に功績が認められ、「大祖国戦争第一等勲章」がクレムリンで最高会議幹部会議長(書記長ではありません)のミコヤンより遺族である妻山崎淑子と次男山崎洋へ授与されました。

戦後20年たってからの遅い表彰の背景には、スターリンがゾルゲの上司であるヤン ベルジン粛正していて、粛正の責任者であるベリヤはゾルゲからの情報を握りつぶしていたためなのです。日本が対ソ戦は行わないという情報により、満州との国境線に配備していた冬装備の精鋭部隊をドイツ戦線へ送ることができたというゾルゲの手柄は無視されていました。

これはゾルゲの獄中手記を読んだ女優岸恵子が映画にできるのでは?と当時の夫であるフランス人映画監督(イブ・シャンピ)に話し(もちろん岸も出演します)、映画化された「スパイゾルゲ/真珠湾攻撃前夜」(1961年作)を当時のソ連最高権力者のフルシチョフ書記長が観て感銘し、初めてゾルゲの存在を知り、ヴケリッチも調査をしたことによりました。

エディットの脱出

ヴケリッチとは40年に離婚しますが、引き続き日本にとどまります。同じ年にデンマークはドイツの占領下におかれてヨーロッパでの戦争も本格的に始まっています。
そして9月、御前会議での内容が分かり、エディットは妹の勧めにより妹の住むオーストラリア西部へ息子のポールと脱出しています。その後、体育教師などをしながら家族を支え1987年に亡くなっています。

淑子と洋

淑子は洋のことを想い、洋には父親のことはほとんど話さず、GHQや通訳そしてバーのホステスなどをして洋を育てます。そして洋が慶応大学へ入学した時に、総てを説明します。洋は卒業後にベオグラード大学へ留学し卒業後の現在もゼルビアに住んでいます。淑子も洋もヴケリッチに関する本を刊行しています。クロアチアではなくセルビア在住なのですね。

エディットの息子ポール

ヴケリッチの長男ポール・ヴケリッチはオーストラリアで幼少期は貧しくもビジネスで成功し、娘のダイアンは日本へ留学しています。おそらく祖父ヴケリッチのことを知っての留学だと思います。なんと大学は異母叔父と同じ偶然にも慶応大学。それがきっかけとなり2014年に東京でポールと洋の兄弟は握手をしています。仮に戦前の日本で会っていたとしたら洋は生後6か月、ポールは11歳。そして15年には孫のダイアンと娘(ひ孫)が網走を訪れています。90年代にNHKで淑子とヴケリッチのドキュメンタリーが放映されたらしいですが、別視点(ポール目線)からNHKで放送されても面白かったかもしれませんね。

まとめ

サトウに続き2回に分けてしまいましたが、とても興味深い人物でした。ゾルゲのように他人の懐に入り込む本格派スパイというよりは、国際ジャーナリストとして調査、分析をしたのが主な任務だったようで、偽装以外は無期懲役になるようなスパイ活動ではなかったような気がします。スパイとして潜入せず平和な時代であれば、彼の上司ロベール・ギランよりも日本通の著名な人物になっていたことでしょう。
2006年、淑子は亡くなり、富士山が見えるヴケリッチが先に眠る霊園に遺骨は納められました。

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