ノエル・ヌエット(Noël Nouet )

ノエルヌエット 大正-戦前

フランス ブルターニュ出身(1885年生まれ) 詩人、フランス語教師、画家。本名はフレデリック=アンジェス・ヌエット。フランス人 41歳から77歳まで、、、1926年(大正15年)から1962年(昭和37年)、、、静岡・東京滞在。

ノエル ヌエット(1885年 – 1969年)

静岡や東京でフランス語教師の傍ら、版画や詩作など様々な活動を行います。最初の3年間は静岡県で、その後は終戦直前の軽井沢での強制疎開を除いて東京で過ごします。皇居のお堀や日本橋など戦前戦後の東京の風景画などを作品として残します。晩年はフランスに戻ります。1947年レジオンドヌール勲章、1962年勲四等瑞宝章授与。1965年東京都名誉都民。1969年84歳没。

来日のきっかけ

ブルターニュ地方モルビアン県ヴァンヌ周辺で生まれ、パリ大学文学部(現ソルボンヌ)卒業後は出版社に勤務しながら詩作。この頃からペンネームとしてノエル ヌエットを使用し始めます。第一次大戦に従軍後、詩集出版の資金捻出の為に外国人相手の仏語教師となります。生徒の一人に日本大使館員がいて、その縁で1926年3月、旧制静岡高校にフランス語教師として着任し来日しました。1929年帰国の翌年、今度は東京外国語学校(現東京外国語大学)の教師として再来日し、帰国するまで外堀至近の麹町や牛込に居を構えました。

因みに:1926年は12月24日までが大正15年で翌日から昭和となります(昭和元年は僅か7日間)。当時の旧制高校で仏語の授業があったのは、一高、三高、東京、浦和、大阪、福岡そして静岡の7高校でした。旧制静高は当時、一高、浦高に次いで東京帝大入学者数が3番目。

歌川広重4世?

ヌエットの生家には、歌川広重の版画「名所江戸百景」があり、幼少時から広重の浮世絵に触れる機会がありました。そして静岡時代から休日を利用して東京へ赴き、広重の描いた江戸の風景をビルの上などからスケッチしていました。静岡時代の生徒の家が版画商という縁で、1936年に「東京風景」と題して1年間で24枚のシリーズの木版画を出版。また広重の影響で色彩画の版画も試みるなど、本職は教師でありながらヌエットは「広重四世」と呼ばれるようになりました。 

広重の「名所江戸百景」は、江戸時代の初代駐日領事デュシェーヌ・ド・ベルクール(在日期間は1859-1864)が集めフランスに持ち帰り、晩年に姪へ譲り渡し、さらにその姪が友人であったヌエットの母へ譲ったという経緯がありました。

因みに:歌川広重は「名所江戸百景」を1856年(安政3年)から58年(安政5年)にかけて描き、未完のまま亡くなっていて、二代目広重が完成させたと言われています。58年はベルクールが江戸に着任する1年前のことです。

by カエレバ

二代目広重とありましたが、広重は五代目まで存在しています。ヌエットは五代目広重とほぼ同世代なのですが。なぜ「ヌエットは広重4世?」。おそらく、、、直接の門下は三代目までであり、四代目も二代目より絵を学んだものの文明開化により徐々に浮世絵が衰退しはじめ、関東大震災で多くの版元が廃業したようです。四代目はその晩年に初代の墓所を守るために四代目を継いだということから、世間的には広重は三代目までが知られていたのでしょう。

まとめ

ヌエットは、フランス語の教師の資格はありませんでした。そもそも詩人となることを望んでいました。しかし病気で新妻を亡くし失意の日々を過ごしていた頃に外国人に仏語を教え始め日本大使館員と知り合い、日本行きを打診され、彼は決断します。来日直前に2度目の結婚をして二人で来日します。しかし二度目の来日を夫人は拒み、それでもヌエットは単身赴任します。

また戦争が始まっても帰任せず教師を続け、東京大空襲も麹町の自宅で体験しています。幼少時代に広重の江戸を見て、また実際の東京を見て詩人としての感性がシンクロして何かに昇華したのでしょうか。それとも広重に導かれた? 日本、というより東京の街を愛したようです。

生徒たちは、ヌエットはとても穏やかで怒られたとはないと述べています。また与謝野晶子、芦田均、永井荷風などの著名の知己も得て、明仁皇太子の教師も一年間つとめています。戦後は東京大学、早稲田大学そしてアテネフランスなどで教鞭を執り、ヌエットの好んだ街、神楽坂に至近の矢来町の日本家屋を購入しました。

因みに;矢来町12番地だったようで、12番地を筆者は通勤通学路として10年以上毎日通り、今も帰国の際には必ず通ります。あの辺りは戦前から町割りが変わらず素朴な街並みです。

1962年(昭和37年)77歳でフランスへ帰国し、日本政府は勲四等瑞宝章を贈ります。彼の愛した弁慶橋や日本橋の上に首都高が覆いかぶさるのを見ずに帰国できたのは幸いでした。帰国後は妻とブローニュの森に近いアパルトマンで穏やかに過ごしました。1969年84歳没。

旧制静岡高校

矢来町12番地

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