
アーネスト・サトウの2回目です。初めての方は、↑↑↑ まず1回目をどうぞ。↑↑↑
賜暇で 一回目の帰国
迷い
1868年1月、通訳としての最高位である日本語書記官に昇進。前回でも記しましたがサトウはこの4年前、本国に帰るかどうかで悩んでいます。事務仕事が多く日本語の勉強がはかどらなかったようなのですが、自身の出世にも悩んでいたのかもしれません。この時は上司であるオールコックのはからいで事務仕事から解放され、翌年には通訳官に昇進しています。ではなぜ悩んだと思うのかと言うと、通訳生からの外交官というのは、英国ではエリートではなかったのです。そんなこともあり気晴らしに匿名で「英国策論」を投稿したりしたのでしょうか?そして外交特権により様々な土地を訪れ、特に山岳地帯を好んで旅しています。また植物にもとても興味を持っていました。それにしても多趣味多才。
賜暇
1870年、賜暇(シカ:願い出て休暇を取る)で帰国します。横浜を出港し上海やインドなどに寄港し、69年の11月に開通したばかりのスエズ運河を経由して英国へ帰りました。エメラルドグリーンの紅海を過ぎると細長い運河、その運河から地中海へ入るとそこは西洋、さながらタイムトンネルのような感覚だったのではないでしょうか?当時は日本から英国は50日ほどの船旅だったようです。泡沫(ウタカタ)の夢? 70年の11月に日本へ戻っています。
日本人の奥さん
明治維新後
一回目の帰国から日本へ戻ってきたのが明治2年。明治維新以降も日本は激動の真っ只中でしたが、討幕派、佐幕派など維新の志士たちとのやり取りを経験してきたサトウにとっては少し物足りなさを感じでいたようです。実際に明治政府とは現状説明や条約改正問題そしてキリスト教解禁問題など実務的な通訳がほとんどとなってゆきます。後年、維新前のことを「あの頃は、正に生きていたのです」と自ら記しています。維新前は正真正銘、命の危険を感じながらの切迫したやり取りが多かったので無理もありませんよね。
武田兼
英国大使館は、高輪、横浜、御殿山(完成直前に焼き討ち)、泉岳寺、横浜と所在地が変わり明治維新後に三田、そして72年に現在の千代田区一番町になりました。どうやら三田の頃に武田兼(カネ,1853-1932)と出会い結婚しています(婚姻ではありません)。カネは指物師(クギなどを使わずに木工和家具を作る職人)の娘とか植木職人の娘などと言われています。1873年に長女が生まれますが間もなく夭折しています。そしてサトウ二度目の賜暇後の1880年(明治13年)に長男( 栄太郎-1926)、1883年に次男( 久吉-1972年) が誕生しています。
正式に結婚していませんが、当時の英国政府より派遣されて来た者として現地人との婚姻はタブーだったようであり、サトウ自身も個人的な日記にすら日本の家族のことはイニシャルを使うなど、用心していたようです。しかし長男はケンブリッジ大学に入学させようとしたり(病気のため米国へ移住)、将来植物学者となる次男ともそのきっかけとなる山登りなどを頻繁に一緒に楽しんでいます。
周遊
1862年の初来日から80年に三度目の賜暇で帰国するまで、外交官特権もあり様々な処へ出かけています。鹿児島、長州、箱根、神戸、大阪、鹿児島、宇和島、兵庫、蝦夷、新潟、佐渡、七尾、大阪、土佐、長崎、大阪、蝦夷、一度目の帰国、箱根、関東一円、日光、西国巡遊、下田、鳥羽、伊勢神宮、金毘羅宮、厳島神社、二度目の帰国、鹿児島、北アルプス横断、などですが、1度目の帰国から私的旅行が多くなります。また外交官の仕事の一つとして、行く先々での紀行文を書き残しています。その内のいくつかはガイドブックとして刊行されています。明治7年(76年)に一般の外国人も申請が受理されれば日光や箱根などへは行けるようになり、サトウのガイドブックは役に立つこととなります。そしてサトウは日光にとても興味を持っていました。
76年2等書記官 そしてある画策をするサトウ
西南戦争
1876年、二度目の賜暇で帰国します。そして翌76年、2等書記官に昇進します。日本に戻った77年、直後に西南戦争が起こります。パークスの命により鹿児島に来ていたサトウは出陣前の西郷隆盛と会いますが、西郷とはほとんど言葉を交わすことはなかったようです。83年、次男の久吉が誕生すると、三度目の賜暇で帰国します。この時サトウ34歳。西郷隆盛49歳。
アーネスト サトウ個人の画策
賜暇での帰国中サトウは空席となっていたシャム駐在総領事代理を申請し、84年バンコクへ赴任します。サトウは自身の「領事部門」から花形である「外交部門」への転換を希望し将来日本の大使となって戻ることを画策したのです。無駄骨となるかもしれませんが、いわゆる真の英国エリートではないサトウは長期展望に賭けたのですね。
麹町区(現千代田区)富士見町に家を購入
1884年、現在法政大学の図書館(千代田区富士見町)となっている500坪の旧旗本屋敷を武田兼に購入しています。もちろん自分の住居としてです。靖国神社の裏手の今でも静かな場所です。そして元の家は富士見町のお隣の飯田町でJR飯田橋駅神楽坂口の千代田区側、今は日本歯科大学附属病院となっています。友人の英国人でお雇い外国人として来日したバジル・ホール・チェンバレンに貸しています。エリートではないサトウと書きましたが、総領事代理ともなるとかなりの高給取りになるのでしょう。どちらの土地も現在でも当時でも日本人であれば富豪でないと買えない場所にありますものね。
異例の昇進と転身
85年シャム総領事に昇進しそれと同時に「外交部門」への転身に成功します。一年で自分の賭けの一つが達成しました。それにしても通訳生からの昇進と転身と言うのは異例のことのようでした。
1887年ウルグアイ駐在領事となり、88年国教徒へ改宗します。以前より英国国教会については研究していたらしく、どのような理由での改宗かはわかりませんがこの改宗により、サトウは着実に英国紳士への階段を昇ってゆきます。
1893年 モロッコ駐在領事。この間、賜暇の度に日本へ”帰国”しています。

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