江戸末期の殺伐とした時に、博愛の精神で医療活動に大活躍。東大医学部や鹿児島大学医学部のそれぞれ前身の設立にかかわり、そして日本の医学の父となるはずが、、、時代に翻弄された一人の心優しき巨漢アイルランド人、ウイリアム・ウィリスをフォーカスします。
ウィリアム・ウィリス 助っ人指数★★★★ 東京大学医学部、鹿児島大学医学部の前身の創設者
ウィリアムは1837年、大英帝国のアイルランド北部(現北アイルランド)の小さな街エニスキレンで七人兄弟の四男として生まれます。父は役人兼農場地主と裕福な家庭だったようですが、世界史でも有名なジャガイモ飢饉(45年~49年)がアイルランドを襲います。アイルランドの人口の20%以上が死亡や移民などの流失で減ったと言いますから、ウィリアムの家族にも影響はあったことでしょう。子供の頃に辛い思いをしたようです。それでもウェールズで開業医をしていた長兄の援助もあり、スコットランドの名門、グラスコー大学医学部を経てエジンバラ大学医学部を卒業してロンドンの病院で住み込みの外科医となります。ウィリアムス25歳の時でした。ところでウィリアムスは幼少の頃のジャガイモ飢饉を経験しいたはずなのですが、身長2mほど、体重も100Kgを超える巨漢となっていました。
アイルランド島は現在アイルランドとグレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)の北アイルランドに別れています。アイルランドとスコットランドはケルト系のゲール人、ウエールズはケルト系のブリトン人。古代ローマ人はアイルランドのケルト人をスコティアと呼んでいて、現在のスコットランドを征服したスコティア(アイルランド)をスコティと呼んでいました。
スコットランドのエジンバラ大学に進んだウィリアム、そしてウィリアムを援助したウエールズで開業していた長兄、北アイルランドは17世紀からイングランド人が多く入植していましたが、ウィルス家はケルト系だったのでしょう。因みにローマ人、スコットランドはカレドニアと呼んでいたそうです。複雑!
私の知り合いのイギリス人は、「透き通るような青い目をしたアイルランド人は信用できない」と真顔で言っていましたが、、、隣国同士はどこも似たよなものなのですね。
ウィリアムウィリス 日本へ 1862年
ウィリアムスは2年ほどロンドンの病院に勤務した後、外交官募集の外務省の試験を受け合格し日本へ向かいます。海外赴任の条件は年収500ポンド、現在の価値に換算すると7万ポンド(約1000万円)。実はウィリアムス、勤務先の病院の看護師との間に子供ができ未婚の父となってしまいます。困ったウィリアムスは子供を長兄へ養子として預けてしまいます。養育費などの問題もあり高額報酬が見込める外交官の職に飛びついたのでしょう。ひょっとしたら英国から遠くへ逃げ出したかったかもしれません。やんちゃだったのですね。
駐日英国公使館の外交官兼医官として上海経由で文久2年1862年5月25日、横浜に到着します。14代将軍徳川家茂の時世で尊王攘夷真っ只中。
いきなり第二次東禅寺事件
英国の最初の公使館(1859年~)は高輪に今もある東禅寺に置かれていました。今の高輪ゲートウェイ駅の近くです。江戸時代は海だった駅ですね。ウィリアムスが来日して4日後の5月29日、英国に帰国中だったオールコック大使の代理、ニール代理公使の殺害を目的に松本藩の藩士1人がニールの寝室に侵入し英国の警備兵2人を殺害、その時の争いで自らもケガを負い自刃したという第二次東禅寺事件が起きています。いきなり凄い出来事に遭遇します。
真夜中の襲撃事件、ウイリアムは死が頭をよぎったそうです。そして事件後に警護側の藩士が起こしたことに驚きます。つまり自分が今ここにいる異国の地には、自分を殺そうと企んでいる人が沢山いるということを意味するからです。
東禅寺事件。 1861年と62年の二回起こります。一回目の第一次東禅寺事件は、61年7月15日水戸藩を脱藩した攘夷派浪士14名(1名不参加)が英国大使オールコックを襲撃した事件です。夜10時頃に当時英国大使館であった東禅寺に趣意書(攘夷の大義のため)を携えて襲撃します。これに対して外国奉行配下で警備にあたっていた旗本や郡山藩士それに西尾藩士などが応戦します。オールコックを討ち逃し攘夷派浪士は逃走。警備側2名、襲撃側に3名の死亡者が出てしまいました。また英国領事館員2名も怪我を負います。
上記の第二次は警備側の松本藩士1人が起こした事件ですが、日本人同士が殺し合いをすること、また松本藩が実費で警備に当たることを憂い事件を起こしたようです。
オールコックが長崎から江戸へ移動する際に、海路ではなく陸路を強行して移動したことに攘夷派側が激憤したことが直接的な理由です。しかし開国により金銀交換比率の違いから大量の金が国外へ流出し、幕府が金の品位を下げ改鋳した後はインフレとなり際立って国民の生活が苦しくなったことが攘夷の遠因となっています。
来日当初は尊王攘夷の吹き荒れる日本にびびってしまいましたが、その3か月後にはすでにアイルランド魂の本領発揮です。生麦事件が文久2年8月に起こります。江戸から京へ上る島津藩総勢400名の只中に馬上の英国人男女4名が入り込んでしまい、戻ろうとした際に藩士に「切りすててごめん」で切られ、1人(上海から観光に来た英国人リチャードソン29歳)は落馬し瀕死の重傷だったため、別の藩士にとどめを刺されて(!)亡くなりました。他2人は怪我を負いながらも米国大使館に逃げヘボン医師の手当てを受け、残る1人の女性は横浜居留地へ逃げ戻ります。事件の報告を受けたウイリアムは医療道具を抱え、島津の一行とすれ違い自らの命の危険性のあることも顧みず、脱兎のごとく事件現場へ駆けつけたようです。残念ながら治療ではなく絶命していた被害者の検死を行いました。リチャードソンは見るも無残な姿でウイリアムは怒りに燃えたようですが、同時に冷静な目で、この事件で日本人に接する対応が理解され良い教訓となったのではないかと後に手紙に書いています。
この生麦事件の直前に来日したアーネスト・サトウとはとてもウマが合ったようで、終生の付き合いをします。6歳年下で正統なイングランド人でもない生真面目なサトウを可愛がったのかもしれませんね。
生麦事件の別視点 薩摩藩主島津茂久(しまずもちひさ)の父で薩摩藩の実質権力者久光(ひさみつ)の行列を4名の英国人が馬で横切り、無礼と切り捨てられた事件と言われています。ですが実際には、まず行列の先触れである薩摩藩士より、馬から降りるよう指示された英国人たちは、それを脇を通るようにと勘違い。さらに行列は道一杯に広がっていたため、脇を通ることができず行列の中を進んで行きます。そしてついに久光の乗る駕籠(カゴ)の近くまで来てしまいます。そこで再度馬を降りるよう指示されますが、彼らは引き返せを言われたと勘違いします。馬から降りず返す行為が無礼と取れるように見え、そこで無礼討ちとなってしまったようです。
実際に、この事件の顛末を「自ら招いた災難」と述べた英国商人ヴァン・リード、日本の慣習を知る彼は実際に生麦事件の起こる直前に島津藩の行列に遭遇していて、馬から降り脱帽していました。また被害に遭ったリチャードソンを知る北京駐在英国公使フレデリックブルース(あのエルギン卿の実弟)は、リチャードソンに対して否定的な言葉を残しています。つまり彼の中国での中国人に対する非人道的な態度についてです。注)リチャードソンは大人しい立派な若者であったという評もあります。
また被害者の二人の傷の手当てを行ったヘボンは、以前、尾張藩の大名行列に遭遇し、先触れより、ひざまずくように指示されるもこれを拒否し、立ったまま行列を見守りました。一時は張り詰めた空気が流れるも問題なく通り過ぎたということもありました。
やはり馬上で高貴な行列の中を通るという行為に問題がありましたね。それを問題だと思わなかった大英帝国の英国人4人の行動は良くなかったと言わざるを得ません。当時、自国で同じことを彼らはできたでしょうか?
習慣や言葉の違いのよる不運な出来事であったわけですが、これが歴史を動かす大事件の発端になったわけです。やはり郷に入っては郷に従えは大切です。
ウィリス、大政奉還までの活動
幕末の真っ只中の日本に身を置き、外交官であると同時に医官でもあるウィリアムは多忙を極めます。
居留地での医療活動に加え、薩英戦争(63年)、下関戦争(64年)に同行し兵士の治療を行いつつ、本国外務省への報告書作成の業務もありました。
1866年には引き続き医官兼任の首席補佐官に昇進します。そして薩摩藩に招かれたパークス公使に同伴し、長崎でジャーディン・マセソン商会の代理店「グラバー商会」で有名なスコットランド人のグラバーと鹿児島へ行き、島津久光や西郷隆盛らと会見しています。
67年には大政奉還直前の15代将軍徳川慶喜にパークス公使とともに大阪城で会っています。まさに風雲急を告げる日本の核心人物たちと会っていました。ウィリアム30歳のとき。
因みに英国公使パークスは幕府支援のフランス公使ロッシと対立していて、討幕派の薩長を支援しています。
怒涛の戊辰戦争
67年、兵庫港開港に備えウィリアムは大阪へ異動となります。
そして、、、、
大政奉還(67年11月9日)、兵庫港が開港された二日後の王政復古の大号令(68年1月3日)、そして1月27日に鳥羽・伏見の戦いが始まります。戦いは新政府軍の錦の御旗の前に慶喜が江戸へ逃れ1月30日で決着しますが、京都には大勢の死傷者が出ます。幕府側会津藩の負傷者が大阪に送られてきてその治療に当たり、そして新政府軍の薩摩藩からの要請により京都へ向かうこととなります。
その前に神戸事件(2月4日)が勃発します。新政府軍側の備前藩の隊列にフランス水兵が横切ったために起きた銃撃戦、死者は出ませんでしたが、ウィリアムは双方の負傷者の手当てを行います。そして流れ弾に当たってしまった一般人の傷の手当ても行っています。
神戸事件は、新政府に西宮の警備を命じられた備前藩の隊列の前を仏水兵が横切り、言葉の違いや誤解もあり備前藩側が仏水兵に向け発砲し、また近くの神戸居留地建設予定地にいた英公使パークスらへも発砲し、英、米、仏と撃ち合いにまで発展した事件で、明治新政府が初めて対処した政治外交問題。
結局、備前藩の隊の責任者であった滝善三郎が責任を一身に受ける形でこの問題は終結しました。つまり列強各国の外交官の見守る中、滝が切腹となったのです。
神戸事件は、その対応を一歩間違えれば、兵庫湾に開港を祝う目的で集結していた列強軍艦との戦争となり、その場合日本も中国の清が辿ったように国が分割され占領されていた可能性もありました。しかし明治政府の迅速な対応は、列強各国に対して日本は幕府ではなく朝廷側が既に権力を持ち、そして友好的であるという認識を与える結果にもなり、その意味で重要な事件でもありました。
京都へ通訳のアーネスト・サトウ向かうウィリアムですが、実は彼らは開国後に朝廷より京都への滞在を許された初めての西欧人となります。新政府になったとはいえ攘夷の浪士が沢山いた京都、まだまだ許可があったとはいえ命の危険もあったことでしょう。
京都の薩摩藩の野戦病院となっていた相国寺へ到着したウィリアムは、傷ついた兵士たちを次々に見事な西洋医術で治療してゆきます。そして重傷を負っていた西郷隆盛の実弟である西郷従道も無事治療し新政府から信頼を得ることとなります。そして土佐藩元藩主の山内容堂の肝臓の治療後にパークス公使とともに明治天皇と引見し、新政府より戊辰戦争に従軍し医療活動を行うことを依頼されます。江戸での上野戦争の負傷兵治療に対して新政府はウィリアムのために横浜に野戦病院を設立し彼は院長となります。これが東大病院の前身のおおもととなります。そして東北戦争へ従軍し特筆すべき大活躍を見せます。新政府軍の幹部に、捕虜の虐殺禁止を訴え、そして敵味方に関わらず負傷兵の治療に当たります。この博愛精神溢れる行為は、後に博愛社の結成とそれに続く日本赤十字社創設へとつながることとなります。悲劇を生んだ会津戦争でもウイリアムは敵兵士への治療のみならず、一般市民への食糧手配などを行い戦争による飢えや疫病などの二次被害を防ぐ行為を行います。
驚くべき、ウイリアムの大活躍。これによりウィリアムは明治天皇への謁見を許され感謝状を賜り、また新政府からは新設の東京医学校兼病院の医院長に英国大使館員の身分のまま要請されます。この東京医学校は東京大学医学部の前身となります。ウイリアム、人生最高の晴れ舞台となります。
ウィリアム、続きます。




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