アイルランド人の医療の助っ人

幕末-明治

ウイリアム・ウイリスの2回目です。1回目がまだの方はこちらから

ウィリアム ウィリス William Willis
江戸末期の殺伐とした時に、博愛の精神で医療活動に大活躍。東大医学部や鹿児島大学医学部のそれぞれ前身の設立にかかわり、そして日本の医学の父となるはずが、、、時代に翻弄された一人の心優しき巨漢アイルランド人、ウイリアム・ウィリスをフォーカスしま...

ウイリス、東京医学校から鹿児島へ

英国大使館員身分のまま新設の東京医学校兼病院の医院長となったウイリアム、収入も増え充実した日本での生活か、、、と思いきや、、、ウイリアムはどうも日本では成功と同時に少しついていない運命がついて回ります。出向先で彼は英国流の臨床重視の地域医療体制を整えようと考えますが、出向して間もなく彼の思惑はとん挫します。
明治政府から送られてきた蘭学系の相良知安などの医師らにより、医学校は強引にドイツ医学系の伝染病研究主体の体制へ進められることとなります。江戸時代よりオランダ語が主要西洋語であり、そのオランダはドイツ医学を模範としていたので、維新後の医学は古来からの漢方と蘭学系の人たちが主要な地位を占めていたので無理もなかったのでしょう。ウイリアムは一年で東京医学校を辞めることとなります。
このことで面目を潰されたのが、西郷隆盛や山内容堂たちかつてウイリアムのお世話になった人たちです。先述の相良知安は、薩摩、土佐閥の恨みを受け失脚します。そして西郷はウイリアムを鹿児島に来るように誘います。
1870年(明治3年)、ウイリアムは英国大使館を辞職し鹿児島へ向かいます。西郷隆盛の後押しを受け、明治元年に設立されていた医学院を鹿児島医学校(現鹿児島大学医学部)へと改名し、その医学校運営から病院の体制確立まで全てを任せられます。東京医学校の設立が人生の晴れ舞台だとすれば、この鹿児島時代は人生でもっとも充実していた日々を送っていたこととなります。

江夏八重との結婚

鹿児島でも西洋の医療の導入に苦労します。薩摩は他よりも武士の比率が圧倒的に高く、なんと人口の25%もいました(平均は4%)。そのせいもあり、なかなか異国人による最新の医学は受け入れられませんでした。それでも、臨床医学、予防や公衆衛生にも力を入れて、辛抱強く実績を積み上げてゆきます。
特筆すべきは、日本初の妊産婦検診、緑内障虹彩切除や研修医制度など近代日本医学の重要な役割を始めた医師であるということです。また慈恵医科大創設者の高木兼寛や海軍軍医総監の實吉安純(さねよし)を育てました。
西郷から信頼され鹿児島医学校を託されたことに熱血漢ウイリアムに響いていたのでしょう。その熱い思いも徐々に鹿児島の人たちにも伝わって行きます。
1871年、島津久光の御側役だった江夏十郎の治療で知り合った十郎の才色兼備な娘、江夏八重と結婚します。ウイリアム34歳、八重21歳でした。そして73年には長男のアルバートが生まれます。江夏の姓は「こうか」と読みます。戦国時代に来日した易者、黄友賢が帰化して日本名江夏としその江夏に由来するとされています。そして江夏との結婚により日本永住への思いも一層強まったことでしょう。

休暇により英国へ一時帰国と離日

1872年に明治天皇へ拝謁、74年には明治政府の台湾出兵で大勢の兵士がマラリアに罹患し、患者はウイリアムの元へ送られ回復させるなど、引き続き鹿児島では慌ただしい生活を送ります。
そして1875年春から約一年間、英国に戻ります。休暇を兼ねて最新の英国医学を学び日本へ伝えることも大きな目的でした。
そしてこれから!という時に1877年(明治10年)2月、西南戦争が勃発します。外国人退去令が出され家族とともに横浜へ逃れます。そして鹿児島医科大も閉鎖されてしまいます。英国大使館時代の同僚であり親友であったアーネストサトウを頼り、日本での再就職の道を探りますが上手くゆかず、妻子をアーネストサトウに託して英国へ戻ります。
そして4年後の81年、日本での職探しのために再来日します。しかしこの時の日本はすっかりドイツ系の医学に染まっていて、また西南戦争の盟主となっていた西郷隆盛に近い存在であったウイリアムの居場所は日本にはなく滞在期間はわずか二か月。妻八重を残し長男のアルバートを連れて英国へ帰国します。八重とはこれ以降会うことは叶いませんでした。
ところでウイリアム、破格の好厚遇で鹿児島に迎えられていました。年俸$1万程度はあったと言われています。今の価値に直すと20億円!どのように利用していたのかは定かではありませんが、鹿児島で不動産を投資していたとしたら没収されていたことでしょう。アーネストは東京の一等地に土地を複数購入していたのを考えると、明暗が分かれてしまいます。ウイリアム、なんとなく昔から運が悪いですよね。

帰国後

運の悪さも人の好さでカバーしているのがウイリアムの好さでしょうか。
84年からシャム駐在総領事代理となっていたアーネストの推薦でバンコク英国公使館付き医官としてシャム(現タイ)に赴任します。ウイリアム47歳。アーネストは着実に自ら計画した昇進し日本大使となって日本へ戻る計画を実行しています。20年以上付き合いのある親友アーネスの計画をウイリアムも知っていたはずですから、おそらくウイリアムもシャムを足掛かりに日本へ戻ることを密かに練っていたかもしれません。思慮深いアーネストの助言だったのでしょうか。
アーネストは87年からウルグアイへ栄転しますが、ウイリアムはタイに残り王朝の全面支援を取り付け、王立医学校の設立から始まりタイの医学の近代化に貢献します。日泰両国の首脳に取り入られたということは、ウイリアムの医者としての実力、熱意、実行力が誰の目から見ても明らかだった証拠でしょう。しかしタイ滞在8年目1892年、体調を崩してしまい本国へ帰国します。すでに死を覚悟していたようです。そしてその2年後の1994年56歳、地元北アイルランドのエニスキレンで永眠します。

チッチャイ君
チッチャイ君

エニスキレンで思い出すのは、1987年のIRAのテロ。
そして2013年のG8開催かな。
そうそう、アイルランドでのジャガイモ飢饉、
エニスキレンだけは湖水に恵まれて
ジャガイモの病気は余り影響は受けずに済んだらしいね。
ウイリアムがスクスクと育ったわけだわね。

まとめ

ウィリス・ウイリアムは、晩年英国で栄誉ある英国王立外科医師会メンバーにも選ばれます。日本でもそしてタイでも彼の果たした役割は非常に大きなものがあります。英国ではアイルランド人であること、日本では西郷派となってしまったことが不運であったかもしれません。順調に行っていたタイでは残念ならが病に倒れてしまいます。あと1年元気で過ごしていれば、親友アーネスト・サトウが英国大使となって日本へ赴いていたので、ひょっとしたら日本で愛妻八重と暮らせたかもしれません。
振り返れば不運だったのかもしれませんが、”豪快で良い奴”なウイリアム、現代でもおしゃべり好きで世界で一番寄付の大好きなアイルランド人、まさにアイルランド人として人生を全うしたのでしょう。

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