皇居の千鳥ヶ淵、いつもはひっそりとした通りも、春になるとお花見で大勢の人でにぎわいます。
この桜並木、実は千鳥ヶ淵の隣にある半蔵豪正面のイギリス大使館の空き地に桜を植樹したのがきっかけなのだとか。
誰が植樹をしたかと言うと、サトウさんなのだそうです。
サトウ?
そう、和書の蒐集家(収集家)でディスカバリージャパンの本家と言う顔も持つ助っ人、
アーネスト・サトウを今回はフォーカス。
アーネスト サトウ Ernest M.Satow(1843年-1929)助っ人指数★★★☆英国の外交官
日本に憧れ、英公使館職員として19歳と言う若さで江戸時代末期に来日し、早々に生麦事件や薩英戦争を経験するなど、幕末から維新にかけて歴史に登場する人物や事件に直接多く関わりました。日本語や文化を素早く習得して、当時の来日外国人の中で随一の日本通としてその名が知れ渡り、いち通訳生から駐日大使そして英国枢密院顧問官となり、聖マイケル・聖ジョージ勲章を受けるまでとなった立身中の人物です。
生い立ちとルーツ
1843年ロンドン生まれ。父(デービッド)はラトビアのリガ出身でドイツのスラブ系民族であるソルブ人、姓のサトウはそのソルブ人の中でも希少な姓のようで母はイギリス人。と言うことは日本の佐藤とは関係なく偶然似たような名前だったのですね。
三男として生まれ育ったアーネストは、子供のころからとても優秀だったようで、父親は当初、名門ケンブリッジに入学させようとしました。ところがプロテスタントであり英国国教徒ではない父は、階級制度の強いイギリス社会のことを考えて、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)に進学させます。
ユニバーシティー カレッジ ロンドンはロンドン連合大学に属している1827年設立のイギリスを代表する総合大学。ノーベル賞受賞者を29人も輩出しています。日本人では伊藤博文や夏目漱石、現代ではあの小泉元首相も留学しています。
そしてアーネストはイギリス人ローレンス・オリファント著の『エルギン卿遣日使節録』に接して日本に憧れたようです。著者のオリファントは秘書としてエルギン伯爵の日英和親条約締結時に日本へ同行して、その様子を書き記したようです。二人とも日本には好印象を持ったようで、エルギン伯爵は友人への書簡に「この忌まわしい東洋に着任して以来、愛惜の念をもって離れる唯一の土地」と日本のことを書き記したりもしています。因みに伯爵は幕府との交渉で、「条約を締結しないと50隻の軍艦が来るぞ!」と幕府を恫喝しているのですけどね。
アーネストは、世界の最果ての国、極東日本の最新情報を知り、しかも好意的に書かれていたわけですから、彼の日本熱は相当なものだったようです。
一回目の訪日(1862年-大政奉還は67年)
アーネストは英国外務省へ通訳生としてトップの成績で入省します。まずは中国(当時は清国)の北京で漢字を学習することとなります。
1862年9月8日(文久2年8月15日)、英国駐日公使館の通訳生として横浜に着任します。そしてアメリカ人宣教師ブラウン(明治学院大学創設の一人)や、医師・高岡要などから日本語を学びました。二人とも歴史に名を残した有名な人です。
着任後は、英国公使館の医師ウィリアム・ウィリスや画家兼通信員で東禅寺事件の挿絵でも有名なチャールズ・ワーグマンとも公私ともに親交を深めます。
来日した1862年と言うと有名な生麦事件が発生しています。サトウの来日直後のコトです。
生麦事件とは、現在の横浜市鶴見区生麦付近で薩摩藩の藩主島津茂久の父、島津久光の行列に乗馬中のイギリス人が通過したために起きた薩摩藩士による英国人殺傷事件です。薩英戦争の原因となった事件ですね。
生麦事件とその前に発生した第二次東禅寺事件の賠償問題のため、英国代理公使のジョン・ニールは幕府との交渉にあたりサトウもこれに加わったのですが、当時のサトウの日本語の能力では通訳はできず、幕府と英国側がそれぞれのオランダ語通訳を介して交渉したのでした。なんとも面倒なやり取りですが、当時は英語よりもオランダ語が重要な言語でしたからね。まだ来日間もないサトウの日本語では、国同士の重要な通訳はまだできなかったのでしょう。
サトウの「日本語通訳」としての初仕事は、着任からわずか9か月後の1863年6月24日(文久3年5月9日)、老中で外国事務総裁だった小笠原長行の英国代理公使ニールへの手紙(「5月10日より攘夷を行うと、将軍家茂が孝明天皇に約束したことを知らせる内容でした)を翻訳したことでした。 初仕事から凄い手紙の翻訳!しかも来日してからたったの9か月!「話す」よりは「翻訳」の方が早くできるようになるとは言え、今の日本人でさえ当時の文語体を翻訳することができる人はそういないのではないでしょうか。

サトウ来日後から明治維新まで
生麦事件(1862年)が着任直後の起こります。1863年には薩英戦争。そして下関戦争。この頃に伊藤博文と出会い、高杉晋作の通訳を務めています。
着任3年後(1865年)に英国大使館の通訳官に昇進します。この前後に将来のことを思い帰国を考えるようになるのですが、駐日公使のオールコックから昇進に尽力すると諭されて帰国を思いとどまっています。人生の岐路ですね。そしてこの頃から「薩道愛之助」という日本名を使い始めています。「アーネスト」を「愛之助」って、ひと昔前の暴走族っぽいですが、「佐藤」としていないところが好感持てます。
「英国策論」を1866年に匿名で発表します。これは明治維新の原型となったのでは?とと言われるほど内外で話題となったようです。この頃に横浜の大火により、住まいを横浜から泉岳寺(現東京港区)に移します。同僚でアルジャーノン・ミッドフォードと同居します。
1867年には 例幣使に掛川で襲われる事件が起こります(A,サトウ襲撃事件)。そして 大使パークスが将軍徳川慶喜に拝謁した際に通訳を務める。同年にイカルス号水夫殺害事件。それにしても毎年毎年大きな事件に遭遇していますね。
王政復古の大号令後に大阪城で慶喜とパークスの謁見時に通訳を行います(1868年)。
東京で明治天皇と二度目の拝謁を果たします。1869年のことです。
上記以外にも西郷隆盛、五代友厚、後藤象二郎、坂本竜馬、大久保利通、三条実美そして岩倉具視、面白いところではシーボルトの娘イネなど歴史上の人物と会っています。
日本が大きく変わろうとしている時、サトウは通訳官としてまさにその只中にいたのです。時には夷狄として命を狙われたり、日本の最重要な人々と接しました。異国の地でこのようなことが起きるとは『エルギン卿遣日使節録』を読んでいた頃には想像していなかったことでしょう。
「英国策論」
1866年にサトウがThe Japan Timesに匿名・無題で寄稿した文が和訳されてさらに写本され「英国策論」と題されて広まったもの。この題名から大英帝国の正式な政策論として広まってしまい、明治維新にも大きな影響を与えました。この時サトウは22歳!徳川幕府が朝廷の承認なしに結んだ安政五か国条約は無効であり、新たに天皇や諸大名連合と結びなおすべきであるというのが骨子。この頃の幕末の志士たちやアーネスト、みな若いですね。
「A.サトウ襲撃事件」
1867年4月、大阪で英国公使と将軍慶喜との会見で通訳として参加し、その後C.ワーグマンと陸路で江戸へ帰る途中の掛川宿で例幣使らに夜襲をかけられた事件。この頃の例幣使とは日光東照宮の例祭に赴く天皇の勅使で、行きは中山道を使い帰りは江戸経由で東海道を利用していました。サトウは情報から彼らとすれ違うことがないよう、早めに掛川宿に到着していました。夜襲は12人でしたが、護衛の侍に撃退されたそうなのです。映画の中の話みたいですね。因みに英国の記者兼挿絵画家C.ワーグマンはその6年前にも東京高輪の東禅寺で水戸藩浪士の襲撃を受けています。なんとも物騒な世の中。命がけの来日、当時最先端の国から内戦直前の辺境の地への赴任、私には考えられません。
