日本のプロ野球、阪神タイガースの助っ人選手で日系以外の初の外国人選手。1960年にテスト入団。1962年にタイガースの戦後初優勝にも貢献し、日本人女性と結婚し引退後も日本で起業して日本に留まった真の助っ人をフォーカスしてみます。
マイケル ソロムコ (1936年~)
阪神タイガースで球団史上初の日系以外の外国人選手。
貧打のタイガースを助けタイガースの戦後初の優勝に貢献しました。米国本場のプレースタイルをタイガースに持ち込み、片言の関西弁で仲間を盛り上げていました。4年間タイガース、2年間オリオンズに在籍し引退。引退後は大阪で起業し現在も日本在住。
来 歴~米国時代まで
ソロムコは1936年(昭和11年)に米国のペンシルバニア州で生まれます。この年にクーパーズタウンに野球殿堂ができてベーブルースらが殿堂入りしています。F.ルーズベルトが大統領に再選されて29年に起きた大恐慌からも徐々に立ち直り始めた頃です。日本では2.26事件が起きています。
そして戦後1954年(昭和29年)に17歳でピッツバーグと契約して、まずはピッツバーグ傘下でC級のセントジーン カナディアンスでソロムコのベースボールキャリアはスタートします。翌年にはB級のバーリントン-グラハム パイレーツに昇格して、さらに2年後の1957年にはA級のリンカーン チーフスに昇格しています。21歳の時です。
当時の米国はマイナーリーグが下からD,C,B,A,AA,AAAと6階級もありました。
当時の米国のベースボールのメジャーリーグ傘下には、マイナーリーグが下からD, C, B, A, AA, AAAと6階級もあったのです。ソロムコは順調にメジャーリーグの階段を上がっているようにも見えましたが、若い頃の4年間はとても長く感じ、ランクが上がるにつれ実力者も多くなり、将来を考えてしまったのかもしれませんね。
来日以降
退団の翌年1958年(昭和33年)に日本の米軍座間基地へ米陸軍兵として来日します。そして運命を左右する人物と座間基地で出会います。1960年春、座間基地の米軍ゴルフ場の支配人でその前年まで日本のプロ野球タイガースの監督だった日系人田中義雄(カイザー田中)氏にスカウトされます。
そして大阪タイガースの入団テストを受け、大阪タイガースに入団が正式に決定します(61年より阪神タイガースとなります)。背番号は56番。タイガース初の外国人(日系以外)選手として話題となります。
入団の年はタイガースで2番目に多い17本のホームランを打ち(1位は22本の藤本勝巳)、その年のオールスターにも選出されています。
1962年(昭和37年)にはタイガースの戦後初の優勝に貢献します。
1964年若生智男とのトレードで東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)に移籍。背番号9番。
1965年(昭和40年) 視力の衰えから現役引退。
1970年(昭和45年) 起業。
タイガース時代
身長176センチ、助っ人外人としてはやや小柄。でも俊足好守な中距離打者として貧打のタイガースを支えていたようです。日本の野球というと、イチロー選手のような緻密で抜け目のないイメージがありますが、入団当初のソロムコ選手、四球でゆっくりと一塁に進みつつ、相手がのんびりしているといきなり猛ダッシュで二塁に向かったり、外野手としても強肩を披露し、日本に抜け目のない野球を持ち込んだ助っ人の一人かもしれません。オールスター戦に選ばれたのもそんな新鮮味のあるプレーが評価されたのでしょう。因みにオールスターではホームランも記録しています。
奥さんは日本人、お嬢さんは?
同僚となるバッキー投手が奥さんと来日してソロムコと同じアパートに。その時にバッキーはソロムコの奥さんにお世話になったと語っているので、63年にはすでに日本人女性と結婚していたようです。だからなのか関西弁を上手に操り選手の間でも人気者だったようです。奥様も英語が堪能でバッキーの奥さんと二人でよく大阪にショッピングに行ったとか。
1981年、この頃は外人やハーフタレントも珍しかったのだとは思いますが、お嬢さんのクリスさんも「初」の冠がつきました。当時16歳。初代東レ水着キャンペーンガール。
年俸は?
ところでこの頃の日本のプロ野球の助っ人外人はどれくらい稼いでいたのでしょうか?
ソロムコが挑戦した50年代の米国メジャーリーグについて。当時のメジャーリーグは圧倒的に世界最高のレベルだったようで、日本へも何度か単独チームや選抜チームが来日しましたが(しかも完全に観光気分)、日本のプロは全く歯が立たず。中学生が大人と野球をしているほどの差があったと当時対戦した日本人選手が感想を述べています。ソロムコは3年かかってようやく3軍、メジャーリーグの層の厚さを思い知ったとしても不思議ではないでしょう。
日米人気選手の年俸は?
1960年より少し古い記録ですが、1958年の大リーグの平均年俸は15,000ドルで人気球団のNYヤンキースの最高年俸はミッキーマントルの8万ドルでした。また60年の米国の中流層の平均年収は3000ドル~5000ドル。当時は固定相場制で1ドルが360円でしたから100万円~180万円、マントル選手は約3000万円。日本の60年のサラリーマンの平均年収は30万円なので、その格差は3倍~6倍。そして60年度のプロ野球最高年俸は日本の勝利数400勝と圧倒的一番の金田正一選手の1,250万円です。当時の日米の経済格差や野球のレベルの違いを考えるとミッキーマントル選手と金田選手の年俸の差は少ないと言えるのか、それともさすが金田正一!なのでしょうか?
ソロムコ選手の初年度の年俸を推測すると、、、
ほぼ同年代にタイガースに在籍したバッキー選手は、「当時24歳で3Aを首になった直後だった自分としては、タイガースから提示された年俸はメジャーリーグのそれとそんなに変わらなかった」と述べています。なので1万ドルはあったのでしょう、円換算で360万円はあったのではないでしょうか。バッキー選手を参考に、3年前でしかもキャリアも少ないソロムコ選手は5,000ドル、、、、当時の円換算で180万円程だったのではないでしょうか?これは当時の米国の中間層の平均年収と同じですね。ソロムコ選手はまだまだ若く、米国に戻っても中間層レベルの年収を得ることはできたでしょうか?それを考えると日本に残るという選択肢は大いにあったと言えるでしょう。
オリオンズへ移籍そして日本での通算成績
タイガースからオリオンズに移籍し東京で2年間プレーしました。初年度こそまずまずの活躍でしたが、2年目は角膜炎による視力の低下から成績も落ち引退を決めたようです。背番号は9番。日本での6年間の成績は、622試合、打率2割5分、509安打、95本塁打でした。29歳と言う若さでの引退でした。
因みにオリオンズのホームグラウンドは北千住に存在した今はなき東京スタジアム(東京球場)。紆余曲折を経て現在は東京都が土地を取得し荒川区が管理する荒川総合スポーツセンターになっています。金メダリスト北島康介選手が幼少期に利用したことで一時期有名になりました。
起業
1965年に引退し、住み慣れた関西に戻り、1970年にアメリカ製の高級調理器具の訪問販売会社を起業。ラスタークラフトと言うルクレーゼのように無水料理もできステンレス製の高品質なお鍋が主力商品だったようです。ドルショック(1971年)や変動相場制移行(1973年)前と言うこともあり、かなり値の張る商品だったようです。この頃はまだまだ舶来モノ神話が絶大で、クルマは欧州車で知名度があったのはポルシェくらいでアメ車は庶民の憧れの的。マスタングなどの若者向け大衆アメ車も日本では高級車でした(今は中古市場で人気があり驚くほど高価になっているようですが)。お亡くなりになりましたが野村選手など人気選手もアメ車を所有していました。80年代にはソロムコ本人がTVCMに出たと言うことですから、会社も順調に行っていたのでしょう。2000年代初頭までは営業活動は行われたいたようですが、現在はどうやら活動されていないようです。
まとめ
タイガース初の日系人以外の外国人選手。メジャーリーグ未経験とは言え、走攻守三拍子揃った好選手でした。タイガースのライバル、ジャイアンツには滅法強く、しかも4年間の在籍中に2度のリーグ優勝に貢献。また上手に関西弁を使い麻雀好きで選手からも愛されたようです。バッキーも回想していましたが、当時の関西は外人が少なく、街を歩いてもとても目立ち、そして関西の人からもとても愛されたようです。



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