鎌倉を愛した陸奥イソ(ガートルード エセル パッシガム) Gertrude Ethel Passigham

大正-戦前

-敬称省略-

おそらく日本人男性と正式に結婚をした最初のイギリス人女性。以前連ドラでも人気となったマッさんとリタ(スコットランド人ですが)は大正時代。それよりも15年早い明治時代の話しです。その名はエセル バッシガム(日本名:陸奥イソ)、夫は元紀伊藩士で幕末と維新の政治家、陸奥宗光伯爵の息子である広吉伯爵。日本に移住し鎌倉の魅力に取りつかれた最初のヨーロッパ人。そんな彼女をフォーカスします。

陸奥イソ(エセル) 助っ人指数★★★★ 陸奥宗光の長男の妻

ガートルードエセルパッシガムGertrude Ethel Passigham (1867-1930)

夫である陸奥広吉(むつひろきち)は「カミソリ大臣」「陸奥外交」などと呼ばれた貴族、陸奥宗光(むねみつ)の長男として1869年に生まれます。当時米国人大使館婦人より「日本人で一番の美男子」と言われた父に劣らず美男子だったようです。慶應義塾からケンブリッジ大学、ロンドン法学院に学び法廷弁護士の称号を得て帰国し、その後外務省の通訳官となります。そしてケンブリッジ時代の下宿先の大家さんの娘がエセルだったのです。エセルは1867年(姐さん女房ですね)オックスフォード生まれ。

ケンブリッジでの出会い

夫となる陸奥広吉は、父が紀州藩士であったので、その紀州藩と関係が強かった中津藩邸内にあった慶應義塾に入塾します。そして1887年(明治20年)に英国のケンブリッジ大学に留学します。そしてその時に下宿していた家主の娘がエセルでした。ほどなくして二人は付き合い始めます。そしてお互いに結婚を強く意識するのですが、エセルの家族と広吉の父、宗光も反対します。激情家だったと言われる宗光の怒った顔が想像できますね。それにしても祖父の代で政変に遭い紀伊藩重臣から没落したとはいえ、宗光も広吉もお坊ちゃま育ちで品が良くしかもイケメン。エセルも惚れてしまったのでしょうね。広吉18歳、エセル20歳の出会い。

広吉は外務省へ

その後、広吉はロンドン法学院を卒業して法廷弁護士の資格を得て1894年に帰国して外務省へ入省します。7年間は二人は家族に反対されつつも英国で過ごすことができました。1897年に宗光がなくなり広吉は伯爵を引き継ぎます。頑固な父が亡くなり広吉サイドでのエセルとの結婚に反対者する者はいなくなります。

Romantic Adventure

ロンドンで結婚

そして1898年、広吉はサンフランシスコ領事として赴任することとなります。
広吉はエセルをサンフランシスコへ来るように説得し、エセルも同意します。1884年に別れて以来のサンフランシスコでの再会でしたが、日本では結婚は認められず、エセルは住み込みの家庭教師という偽の立場での同行でした。1901年広吉は体調を崩し日本へ帰国します。エセルも初めて日本の地を踏むこととなります。そして1905年、ようやく結婚の許可が下りロンドンで結婚します。二人が出会って既に17年。エセルこの時38歳になっていました。エセルの家族より「Romantic Adventure」と言われたようですが、”ロマンティクな冒険”は見事に成就します。明治34年のことです。そしてその1年後に英国は”栄光ある孤立”を捨てて日本と日英同盟を結びます。

日本名はイソ

当時の法律により、エセルは日本国籍を取得することになります。そして名前も陸奥磯(イソ)となりました。エセルは海辺が好きだったことと、イソ(Iso)という英語発音がエセルのように聞こえたのも理由の一つでした。確かに似ていますね。

鎌倉へ

その後、中国、イタリア、フランスと広吉の赴任先について行きます。外交官として行く先々でブルジョワな生活、きっと素晴らしい新婚生活となったことでしょう。そして1910年帰国します。エセル、日本人として初めての帰国。1907年に長男イアンが誕生しています。
広吉は喘息の持病があり、静養も兼ねて鎌倉に居を構えることとなります。そしてベルギー全権大使となるのでしたが、喘息の病状が思わしくなく外務省を退官し、以後鎌倉に留まり広吉は慈善活動に取り組むこととなります。広吉45歳、エセルは47歳の時でした。

鎌倉愛

エセルは日本語はほとんど話せなかったようですが、とても鎌倉が気に入ったようです。特に源頼朝が興した鎌倉時代の寺院とそのたたずまいにとても興味を持ちました。
既に京都、奈良、東京などは外国から観光地として世界に知られていましたが、エセルは鎌倉のことも世界に紹介しようと思いつきます。鎌倉時代は初めて武士が日本を統治して、鎌倉の寺院は武士好みの禅宗の寺院が多くありました。因みにエセルは皇族の裕仁(昭和天皇)・雍仁(やすひと/秩父宮親王)兄弟に英語を教えています。

Kamakura Fact and Legend

エセルは「吾妻鏡」や「太平記」を広吉に訳してもらいながら鎌倉時代について研究し、また二人で鎌倉の街を歩き、時には寺院を見学し僧侶の話しを聞き、見聞を広めました。そして1918年、鎌倉の歴史や江の島から大船に至る40か所にも及ぶ旧跡名勝を紹介した書籍を英語で発刊します。それが「Kamakura Fact and Legend(タイムス出版)」です。

関東大震災

1923年大正12年9月、エセルはいつものように材木座海岸を散歩中に関東大震災に遭遇します。幸い陸奥家族は無事でしたが、鎌倉は大変大きな被害を受けます。エセルは地震のない国から来た女性、大きな衝撃を受けたようです。このことは1930年に再版された「Kamakura Fact and Legend」に記されているようです。当時の記録によると鎌倉の街はほぼ全壊し大勢の死者も出て8mの津波も記録されました。きっと材木座海岸にいたエセルも驚いたことでしょう。それにしても津波にも遭わず良かった。

晩年

1925年に18歳となる息子のイアンの留学目的でイギリスに同行します。15年振りの帰国なのですが、息子さんの記憶によるとエセルは鎌倉へのホームシックにかかったようです。そして1年半で鎌倉に戻っています。エセルは60歳になっていましたから、ひょっとしたら既にこの頃は鎌倉に骨を埋める覚悟だったのかもしれませんね。
残念なことに鎌倉に戻ってから2年、1930年(昭和5年)に病に倒れ62歳の生涯を閉じます。
葬儀は鎌倉のメソジスト教会で行われましたが、同時に円覚寺の管長代理による読経もエセルのために行われました。徳のある女性だったのでしょうね。そして12年後の1942年に夫の広吉も亡くなり、陸奥家の墓所である大阪に二人とも埋葬されます。そして戦後、息子イアンにより大阪から鎌倉の寿福寺に改葬され、現在は陸奥広吉・エセル夫妻はエセルの愛した鎌倉に眠っています。

円覚寺、寿福寺はそれぞれ鎌倉五山第二位、第三位と格の高い寺院です。鎌倉五山とは臨済宗の寺院の寺格。他に第一位建長寺、第四位は浄智寺そして五位が浄妙寺。

まとめ

二十歳前後の二人が出会ったのは1880年代。当時世界一の先進国から見たら日本はまだまだ未開の国。そんな国から来た広吉をエセルは好きになるのです。広吉は美男子だったようですが、武骨な父とは正反対の性格だったとは言え、やはり明治の日本男児は違っていたのでしょうか。エセルは広吉だけでなく鎌倉も愛します。当時の鎌倉は4千世帯ほどの小さな町でしたが、鎌倉幕府の面影も残っていて素敵な街だったのでしょう。
昭和5年に亡くなりますが、昭和に入ると日本はどんどん英国と仲が悪くなってゆきます。そんなことを知らずに日本の地に眠ることができたのはエセルの幸せの一つだったと思います。
『Kamakura Fact and Legend』は1995年と2006年に再版されています。
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