渡辺士式(武林治庵) 孟二寛

古代-江戸中期

豊臣時代の末期に中国の明から来た男性。なぜ日本に来たのかは諸説ありますが、
「殿中でござる!」で有名な浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)に仕えた赤穂浪士の一人、武林隆重(たけばやし たかしげ)のお祖父ちゃん、渡辺士式をフォーカスします。
隆重はやっぱり外人だったの?

四十七士(武林隆重)の祖父 渡辺士式 助っ人指数★★★☆

渡辺士式(わたなべ ことのり)は、中国名を孟二寛と言います。誕生年不詳ですが、明の時代の杭州武林で生まれたとされています。おそらく16世紀後半の生まれ。

杭州市は中国浙江州の省都で、上海市に隣接した南西にあります。13世紀頃は世界最大の都市だったようです。13世紀と言うと中国では元、日本は鎌倉時代ですね。

渡辺士式、三つの来日説

まず一つ目は、慶長の役に李氏朝鮮の武官の息子(李聖賢)の従者として明から派遣され、幼い聖賢とともに毛利軍に生け捕りとされ来日したという説。
次に同じく慶長の役に、豊臣家の五奉行で最大の浅野長政の長男である浅野幸長(よしなが)に生け捕られ来日したという説。そうではなく江戸時代(寛永期)に長門国へ漂流していたところを捕らえられたのだよという説もあります。

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、豊臣秀吉が中国の明の征服を考え、まずは朝鮮に侵略した戦争。16世紀中で世界で最も規模の大きい戦争。当時の日本は軍事超大国でした。慶長の役は1597年から秀吉没の翌年まで。因みに李聖賢も後に毛利家に召し抱えられ武士(日本名は李家元宥/りのいえもとひろ)となります。

浅野家とのつながり

どの説が正しいのかは今のところ分かっていませんが、一つ目の説には毛利氏が出てきます。浅野幸長は関ヶ原の戦いで大阪城にいた毛利輝元との和議を仲介しています。その頃毛利氏は広島城を居城としています(関ヶ原の戦いの後、萩城へ減封されています)。この辺りで士式は浅野幸長と関わったのかもしれません。三つ目の説だとすると?

大石内蔵助

浅野家とは医者として仕えたようで、この頃に武林治庵士式と名乗っています。武林は士式の故郷、杭州武林から取ったようです。
士式は浅野長幸の弟で長政の三男の長重(ながしげ)に仕えています。この長重、大阪夏の陣で豊臣方の毛利勝永と戦い(敗走しましたが)、大奮闘しています。その時に長重方で大活躍したのが大石良勝、大石家はこれにより長重浅野家の永代家老となります。あの大石内蔵助の祖先(祖父)ですね。それにしても毛利と浅野、因縁の大阪城。

赤穂藩へ

長重の長男である長直の時に、下野真岡藩(現在栃木県真岡市)から赤穂藩へ国替えとなり藩主となります。士式は医学で浅野家に仕え士分となったわけで、もちろん長重にも仕えていたことでしょう。そう考えると最終的には士式も赤穂へ移っこととなります。士式は先妻がいましが渡辺氏より室を迎え、姓をこの時に渡辺と変えたようです。そして先妻の子は武林姓を、渡辺氏との子には渡辺氏を付けたようです。

浅野長直(ながなお)は赤穂藩初代藩主。日本遺産「日本第一の塩を産したまち播州赤穂」となった入浜式塩田を積極的に導入。大名火消しとしても名高く江戸の大火の時には積極的に火消しの指揮をとったりと、後の孫の刃傷沙汰事件で町衆からの同情を集めた理由の一つとなっています。また朱子学を批判したとして江戸を追い出された山鹿素行を師として受け入れています。討ち入り時に内蔵助が山鹿流陣太鼓「一打ち、二打ち、三流し」をたたきましたが、その山鹿素行です。実際の討ち入りではやっておらず、後の創作のようです。

孫の武林隆重

士式の子供、渡辺式重(のりしげ)は7石2人扶持として赤穂藩浅野家に仕えます。そして二人の子を儲けます。その次男が武林隆重(たかしげ/1672-1703年)です。この時に君主、浅野内匠頭が江戸城で刃傷事件を起こし赤穂事件となるわけです。そして忠臣蔵で有名な四十七士の一人として隆重は高家吉良邸へ討ち入りします。吉良の二番太刀となったのは外国人だったという話もあるようですが、三世であり祖父士式は帰化していますから外国人ではありませんね。それにしても渡辺氏の孫はなぜ武林を名乗ったのでしょうか?父である士重は、父(士式)が中国出身であるということを誇りに思っていたのでしょうか?おそらくそうなのでしょう。隆重は辞世の句(死を前に詠む短型詩)で漢詩を遺(のこ)しています。

まとめ

武林隆重には兄がいて、その兄は父の式重の面倒を看るために討ち入りには参加しなかったのですが、赤穂浅野家改易後に本家浅野家である広島藩に召し抱えられその名を残しています。明の時代の中国、その大都市杭州から来たとされる士式、浅野家に武士の身分という厚遇で仕えることとなりました。しかし日本は異国であり母国中国からすると辺境の地でもあり、そもそも生け捕りにされたにしろ漂流したにしろ全くの不本意な来日。郷愁の念は亡くなるまであったのではないでしょうか。名前を故郷の地名である武林にしています。江戸初期の頃は武士の間では漢詩はそれほど一般的ではなかったようで、そして孫が漢詩を詠んだほどですから、士式は子供たちに漢文を教えたのではないでしょうか、母国の嗜み(たしなみ)として。1657年に亡くなり広島市の国泰寺に眠っています。ひとつ目の説が正しいとすると、、、当時8歳の李聖賢の従者として慶長の役に、、、ということなので、少なくとも当時士式は16歳以上だったと思われます。なので76歳以上と長生きしたことになります。そして士式の死後46年後に赤穂事件が起こります。士式は天国で何を思ったでしょう?「さすが我が子孫!」でしょうか?それとも「命を粗末にして」でしょうか?
因みに隆重は、事件後に江戸の毛利家に一時預けられ、毛利家家臣による介錯(かいしゃく)によって切腹しています。毛利氏との因縁を感じますね。最後に改易された赤穂浅野家ですが、内匠頭(長矩/ながのり)の弟である長広(複雑ですが長矩が養父となっています)は、将軍綱吉死去による大赦で許されて、安房国(今の千葉県)に500石の所領を与えられ旗本となり赤穂浅野家は再興されました。

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