イーデス ハンソン Edith Hanson

戦後(昭和)

ー敬称省略ー

関西弁を話す変な外人タレントの元祖と言えば、いーです、いーですイーデス・ハンソン。1960,70年代にTVや映画で大活躍。その後、田舎暮らしを実践したタレントの元祖でもある日本人以上に日本人な白人女性をフォーカスします。

イーデス・ハンソン 助っ人指数★★★★ いーですいーですイーデスハンソン 元祖関西弁の外人マルチタレント (1939年~ )

イーデスはメソジスト宣教師の父の赴任地、当時英国領インド北部で1939年(昭和14年)8月に誕生します(5人兄弟の末娘)。同年9月にドイツがポーランドへ侵攻する直前です。ハンソンと言う名前が示すようにデンマーク系の米国人です。イーデスがインドに居た1947年にインドは英国から独立を果たしますが、イスラム教徒とヒンドゥー教徒の激しい争いを目にしています。インドはイスラム教徒の国パキスタンと分離してしまいますが、インド独立の父であるガンジーの非暴力独立運動を知ったことでしょう。そして1948年の帰国後は米国で黒人差別の実態を知り公民権運動も目の当たりにします。

公民権運動 米国で1950年代~60年代に起きた社会運動。黒人や他白人以外のマイノリティ民族が,教育や選挙などさまざまな状況での差別に抗議して,白人と同等の権利を求めました。黒人女性ローザ・パーククスがきっかけとなったキング牧師によるバスボイコット事件やマルコムXで有名。
因みに、ガンジーの誕生日の10月2日は、2007年の国連総会により
「国際非暴力デー」となっています。

兄家族と日本へ

米国のオクラホマシティー大学2年時(1960年/昭和35年)に、イェール大学教授だった4番目の兄が交換教授として大阪大学に家族で行くこととなり、以前より日本の文化に興味があったイーデスは大学を休学して一緒に兄家族と来日。
兄たちは翌年には帰国しますが、イーデスは昭和30年代の大阪のごちゃごちゃとした街をとても気に入り、帰国せずそのまま残ります。ひょっとしたら子供の頃に住んでいたインドの街の面影を見たのかもしれませんね。
語学の才能もあったのか、関西弁をどんどん吸収し「関西弁を話す変な白人女性がいる」と関西のTV番組で紹介され評判になります。そして一気にブレイク。

結婚と離婚

日本で人気が出てきた63年、来日してから人形浄瑠璃文楽にはまってしまい、文楽の若手の吉田小玉(後に五代目文吾)と結婚します。イーデス24歳、この頃には初の映画にも出演してますます人気が出てきます。小玉は29歳、伝統芸能の世界ではまだまだ若手で、今でいうところの格差婚とでもいったところでしょうか。それでもイーデスは家事はもとより、夫や夫の師匠の身の回りの世話まで甲斐甲斐しく行い、周りからは日本人以上に日本人と絶賛されます。現代の日本ではなくまだまだ男尊女卑の空気が残る1960年代の話です。しかも伝統芸能の世界に生きる夫。イーデスの苦労は計り知れないものがあったのではないでしょうか。
残念ながら結婚生活は約2年で終わりを告げます。結婚後、芸に身の入らない夫を見ていて、これは自分のせいではないか?一緒にいることは夫にとって良くないことなのではないかと考えての決断でした。

人形浄瑠璃文楽は、大阪発祥の伝統芸能で三味線を伴奏として太夫が語るという音楽である浄瑠璃と人形を使った人形劇です。現在、文楽座が唯一の公演団体となっていて、人形浄瑠璃と言えば文楽という状況になっています。有名な演目は時代物の「国性爺合戦こくせんやかっせん」、世話物の「曽根崎心中」ともに近松門左衛門の代表作です。そして文楽座が演じる文楽は、1955年に日本の無形文化財となり、2009年にはユネスコの無形文化遺産に登録されています。
小玉はその後、五代目吉田文吾を襲名し、ダウンタウンブギウギバンドとコラボした「ロック曽根崎心中」をプロデュースするなど文楽の発展に尽力します(2008年没)。

日本での活躍

離婚後は活躍の場を東京に移しますが、それまでにも映画やドラマそれに今でいうTV番組のMC、それに英会話の本などまさにマルチタレントとして大活躍。タイトルの「いーですいーですイーデス・ハンソン」というオヤジギャグができるくらいですから、大人から子供まで誰でも知っている人気者でした。
映画では加山雄三の若大将シリーズ(アルプスの若大将)でフランスからの留学生役を演じています。どうみても北欧系のイーデスは仏人には見えませんが、当時の日本は西欧人=白人と単純だったのでしょう。そして人気の秘密はやはり関西弁。イーデスが思ったことをどんどん発言しても外人が関西弁を自由に操ることで笑いに変えてしまったようです。そして何より頭の回転が速かったのでしょう。

アムネスティや田舎暮らし

1970年代後半頃から芸能活動を徐々に減らしてゆきます。この頃に人権擁護団体のアムネスティ・インターナショナルと関わってゆくこととなります。日本ではこの頃は人権問題については後進国でしたし、子供の頃からインドでの宗教戦争や階級制度、アメリカでの人種差別問題などを経験したことも影響を受けたようです。そして兼ねてから考えていた田舎暮らしを実践、和歌山県の田辺市の山里に移住し、またアムネスティ日本支部長としても活躍しました(1986年~99年)。80年代にアムネスティに関わる日本人男性と再婚しています。また近畿大学の総合社会学部の客員教授としても活動していました。現在はインドシナ諸国の恵まれない子供達の生活や教育支援を目的としたNPO(特定非営利活動法人)の理事長となっています(2004年~)。

まとめ

日本が目覚ましい経済的発展を始めた頃に来日し、その発展を目の当たりにしながらイーデスも日本で人気者となります。あの頃の日本はガサツで猥雑で公害問題なども噴出して外人の目にも良くは映ってはいなかったはずです。でもそれ以上に日本、いや大阪は魅力的な町だったのでしょう。伝統芸能、文楽の若手人形遣いに嫁いで甲斐甲斐しく夫の面倒をみる。文楽ならぬ浪花節的な人情味のある古風な女性なのかもしれません。今後も彼女の活躍を楽しみにしています。

追記:ロバート M. ハンソン WWIIのエースパイロット

イーデスの三番目の兄、ロバート・マレー・ハンソンは第二次世界大戦時に南太平洋のソロモン諸島で日本軍と戦ったエースパイロットでした。僅か20日間ほどで20機も撃墜し、日本軍機に撃墜され捕虜となった米軍の英雄グレゴリー・ボイトンに代わって所属飛行隊のエースパイロットとなりました。しかし残念なことに米国本土にそのことが報道される前に(44年2月)、ロバートは撃墜され戦死します。後に駆逐艦の名前にもなり(ギアリング級駆逐艦「ハンソン」2004年台湾海軍所属で退艦)、現在では米国海兵飛行隊F18 戦闘機で優秀な働きを残した者に送られる年間の賞「ロバート・M・ハンソン賞」があります。ロバートは戦場に赴く前にボストンの実家に立ち寄り4歳のイーデスと初対面して家族と短い過ごしています。

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