アーチボルト・ルシアス・ダグラス(Archibald Lucius Douglas 1842~1913)

幕末-明治

英国海軍の軍人で明治時代のお雇い外国人として来日して、日本の海軍兵学校の基礎を築いた人物。滞在期間はわずか2年だったけど幾つか貴重な置き土産を残したアーチボルト・ルシアス・ダグラスをフォーカス。

日本サッカーの起源 アーチボルト・ルシアス・ダグラス 運動会も起源らしい。

ふくちゃん
ふくちゃん

アーチボルトは日本政府からの要請で、イギリス海軍顧問団の団長として1873年に来日した英国海軍軍人で来日時は少佐だったよ。

クレヤ君
クレヤ君

来日目的はなに?

ふくちゃん
ふくちゃん

日本の海軍の幹部を育てる学校、海軍兵学寮の教官として来日したんだよ。

明治維新以前には、徳川幕府は1853年の黒船来航後に海軍の設立に乗り出しています。まず1855年に長崎海軍伝習所、次に江戸の築地に軍艦教授所(後に軍艦操練所に改称)を開きます。軍艦操練所は軍艦所と改称されさらには幕府海軍の行政機関としての機能を追加して海軍所と名を改めます。そして英国から軍事顧問(トレーシー顧問団)が来日する予定でしたが、直前に大政奉還となり英国はその派遣をキャンセルします。

クレヤ君
クレヤ君

あと1~2年早くトレーシー顧問団が来ていたら、明治維新もなかったとか?
でも在日英国大使はかなり前から幕府に見切りをつけていたんだったけね?

海軍兵学寮は最初1869年に東京の築地に海軍操練所として設立され、1870年に海軍兵学寮と改称されて、さらに1876年に海軍兵学校として改称・開校。1888年に広島県の江田島に移転しました。

チッチャイ君
チッチャイ君

戦前までは、「江田島」と言えば海軍兵学校のことだったのよ。今でも江田島には海上自衛隊幹部候補生学校があわね。とぉぉっても訓練は厳しいらしいわよ、昔も今も。

チョコット君
チョコット君

第二次大戦までは、米国の合衆国海軍兵学校、英国の王立海軍兵学校と並んで帝国海軍兵学校は、世界三大兵学校って呼ばれてたらしいよ。その兵学校の基礎中の基礎を築いたのがアーチボルトさんということになるのかにゃ。因みに、その所在地からアナポリスと言えば合衆国海軍兵学校、ダートマスと言えば王立海軍兵学校のことだってね。

カナダのケベック生まれ

アーチボルトは当時イギリス領だったカナダのケベックに生まれ(1842年)育ちました。父親はスコットランド生まれのスコットランド人。因みにアーチボルトの姓のダグラスは古スコットランド語で「黒い川」を意味するようです。そしてケベック高校後の1856年に英国海軍に幹部候補生として入隊しています。

クレヤ君
クレヤ君

14歳から海軍一筋にゃ、、、。

そして1873年、アーチボルト31歳の時に35名の英国海軍使節団の団長として来日します。当時の英国海軍は世界一で最先端の軍艦と技術を持っていました。

チョコット君
チョコット君

当時、世界の海軍力2位のフランスと3位のロシアの海軍戦力を合わせるのと同等以上の戦力を持つという二国標準主義を採用していたよ。

ふくちゃん
ふくちゃん

規律もとびっきり厳しかったんだってさ。体罰はムチ打ち!

クレヤ君
クレヤ君

怖すぎにゃっ!

来日の苦労

1873年(明治6年)7月に来日したダグラス一行は、日本の海軍兵学寮を英国海軍式の教育体系へと整備してゆきます。もちろん英国流ということでダートマス海軍兵学校を見本として更には上流階級の子弟が通うパブリックスクールの要素も取り入れます。

クレヤ君
クレヤ君

「海軍士官である前に紳士であれ!」だにゃ!?

チッチャイ君
チッチャイ君

クレア君、正解よ。でもね、ほぼ生徒は元侍。武士に英国の紳士という概念は持ち合わせていなかったのよ、アーチボルトは「こりゃ無理だ」って一時は帰国を考えたそうよ。

そこで、アーチボルトは英国の英雄ネルソン提督を引き合いに出して紳士の教育を生徒に始めます。日本男子にこれがすんなり受け入れらます。

チョコット君
チョコット君

当時ヨーロッパを席巻したナポレオンのフランスとスペインの連合海軍をトラファルガー沖の海戦で破ったのがネルソン提督よ。負けていたら英国はナポレオンの上陸を許していたからね。とても勇敢で優秀な指揮官だったんだよ。「ネルソン・タッチ」って言う勇猛果敢な戦略が有名ね。侍には武勇伝と戦の話しが必要だったのね。

「ネルソン・タッチ」戦法とは、縦列の敵船団の横へ2列となって突撃して、敵船団を3つに分断して撃滅させる戦法。当時の英国海軍の操舵水準の高さと、砲弾の装てん時間の早さがあってこそできた戦法ですが、先頭の船の消耗率は高く、規律と技術そして何よりも勇気が必要とされました。ネルソン提督は先頭に立って部下たちを鼓舞しました。ネルソンは戦いの最中に敵の銃弾に倒れ戦死します。

クレヤ君
クレヤ君

ネルソン提督!隻眼隻腕!僕と同じ隻眼!大姉のクレアさんは隻腕だったんだ。共感できる! 隻腕だったクレア姉さんから僕の名前は付けられたんだ。

チョコット君
チョコット君

世界の船乗りあるあるで、イケメンのネルソン提督は色恋沙汰たっぷりだったようですけどね。

クレヤ君
クレヤ君

陸でも「ネルソン・タッチ」だったわけにゃんね。

チッチャイ君
チッチャイ君

面白くない冗談よ。

チョコット君
チョコット君

その点、アーチボルトは、愛妻と二人の子供、それに乳母を連れての来日。
仕事に集中できたんじゃないかな。

チッチャイ君
チッチャイ君

あら、素敵。

日本のサッカーの起源?

サッカーの起源については、昔から世界中でこれが起源ではないかという話があります。でも近代サッカーの起源となると、1863年英国で競技規則などを統一して設立されたフットボールアソシエーション(FA)だと言われています。そして日本では1866年に横浜で、また1872年には神戸の外国人居留地で行われた試合が起源というそれぞれの説。そしてアーチボルトが来日早々に兵学校で披露した説、最後に1874年にスコットランド人の測量技師ライマー・ジョーンズが工部大学校で生徒たちに指導した説の計4つがあります。日本サッカー協会はアーチボルト説を支持しています。

チョコット君
チョコット君

最初の二つの説は、日本人は遠くから試合を見学しただけだと思う。後々の日本にサッカーを普及させたという展開を考えるとジョーンズ説を推したいところだけど、起源となるとやはりアーチボルト説かな。

チッチャイ君
チッチャイ君

当時の大英帝国の人たちが、進出した国々でサッカーを楽しんで世界中に近代サッカーを広めたのよね。そう考えると35人で来日した英国軍人もきっと最初の休日に、寄宿生活をしていた日本人とサッカーを楽しんだということは容易に想像できるわよね。

運動会の起源もアーチボルト?

アーチボルトは1874年(明治7年)には、兵学校での座学の多さが気になり、心身も鍛えることの重要性を考え、アスレチックスポーツの開催を発案しました。そして3月14日に海軍兵学校寮で開催されました。日本語では「競闘遊戯」と書いて「きそいあそび」と呼ばれました。これが日本の運動会の起源と言われています。

チッチャイ君
チッチャイ君

アスレチックスポーツを和訳したものだけど、最初は「競争遊戯」となる予定だったわしいわね。でももっと勇壮さが欲しいということで「競闘」になったのよ。
徒競走や高跳び二人三脚などの競技があったみたいね。変わったところでは豚追い競争なんて言うのもあったようよ。

クレヤ君
クレヤ君

へぇ~、二人三脚って由緒正しい競技だったのね。

チョコット君
チョコット君

「きそいあそび」に反対する論調が当時の日本であったらしいけど、実際には豚追い競争などは、豚のカラダに油を塗ったものだから、なかなか捕まえることができず大爆笑、大盛況で閉会したそうよ。この後、日本の運動会は同じく英国から来たフレデリック・ウイリアム・ストレンジに引継がれるのだけど、彼は「日本の近代スポーツの父」と言われているよ。

表彰式の曲の起源も。「見よ、勇者は帰る」

この時に行われた各競技には成績優秀者への表彰式もありました。そしてその時に演奏された曲がありました。それはヘンデルの「見よ、勇者は帰る」です。日本でスポーツの表彰式で必ず流れる曲ですね。これは英国陸軍軍楽隊が日本初の軍楽隊に指導した曲でもあります。

ヘンデルの「見よ、勇者は帰る」
英国の名誉革命の終盤、スコットランドが中心のジャコバン派をイングランドが1746年にカロデンの戦いで破り、この戦いのイングランドを応援する目的で作曲した曲。

クレヤ君
クレヤ君

知ってる知ってる、大相撲の表彰式でも流れるあれね。でもスコットランド人のアーチボルトにしたら、屈辱的な曲なんじゃないのかなぁ?

まとめ

わずか2年ほどの滞在期間でしたが、日本人にとって重要な起源となったことを4つも残して英国に戻りました。「海軍士官である前に紳士たれ」「サッカーの起源」「運動会の起源」そして「表彰式の曲」。もう一つ付け加えると、彼のお気に入りの生徒の1人に、「東洋のネルソン提督」と言われた東郷平八郎がいました。つまり旧日本帝国海軍の基礎を作ったのはアーチボルトであるとも言えます。その割には日本でアーチボルトの知名度が今一つないのはなぜでしょう?滞在期間が短くアーチボルトに関する記述が少ないからなのかもしれません。また他のお雇い外国人と違って家族同伴だったので、現地妻を作ったりせず外出なども控えていたので目立たなかったのかもしれませんね。
その後、北米艦隊の司令長官を務めて1907年に退役し、1910年にはカナダの名門マルギ大学の名誉法学博士となり1911年にはナイトの称号も得ています。そして1913年、カナダではなく英国のハンプシャーで亡くなりました。71歳。

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