脇田直賢(金如鉄/キムヨチョル)

古代-江戸中期

豊臣秀吉の時代、文禄の役で父を失い朝鮮から捕虜として日本へ渡った7歳の男の子。父は李氏朝鮮の文官であり高官だったというプライドか、博識も武勇もあり歴史上の男女に気に入られ加賀藩で1500石の立派な武士となったようです。そんな韓国男子、脇田直賢をフォーカスします。

脇田直賢 助っ人指数:★★★★ 玉泉園を造園

金如鉄 キムヨチョル 1585年-1660年

脇田直賢(なおたか)は、1585年に漢城府(現ソウル)で生まれます。本名は金如鉄(キム ヨチョル)、父は貴族身分の両班で文官。当時の李氏朝鮮はかなり腐敗していて日本が攻めて来ることを容易に察する機会があったものの、ほとんど迎え撃つ準備をせず、1592年に始まった文禄の役ではあっという間に首都漢城は占領されてしまいます。そして父は戦死して直賢は宇喜多秀家軍の捕虜となります。

備前国へ

捕虜として日本へ連れて来られた直賢は、肥前の名護屋城(現在の佐賀県唐津)から宇喜多秀家の備前岡山城へ向かいました。そこで秀家の正室の豪と出会い、豪に養育されることとなります。直賢は朝鮮の高貴な出だということを秀家は認識していたのでしょう。秀家の側に留め置くこととしたのです。

豪姫は加賀藩主前田家の祖である前田利家の四女で、その後に秀吉の養女となります。そして配下でとても可愛がっていた宇喜多秀家に嫁がせます。女優宮沢りえにより映画の主人公ともなりましたが、波乱万丈な人生を送ります。夫の秀家が関ヶ原の戦いで西側についたため、改易され息子達とともに八丈島に流され豪は実家のある金沢に戻り離れ離れとなります。そしてその後、同じく大名の身分を捨て金沢に居候していたキリシタン大名の高山右近の影響を受け洗礼をしています(内藤ジュリアに勧められたという説もあり)。因みに豪姫は夫と息子達を気遣い八丈島へ仕送りを続けます。そして豪姫亡き後も前田家はなんと江戸時代が終わるまで支援を続けています。

加賀へ

直賢が来日した一年後、豪は兄のいる金沢へ立ち寄ります。兄は前田利家の長男で前田家を継いだ前田利長です。直賢は豪のお供として同行しました。そこで利長の正室永姫に気に入られ引き取られることとなります。永姫は織田信長の四女です。直賢は豊臣秀吉の養女と織田信長の娘に育てられたことになります。豪姫も永姫も直賢の何に惹かれたのでしょうか。その朝鮮貴族という出自からなのでしょうか?おそらくそれ以外にも聡明であると言うような雰囲気を持っていたのでしょう。直賢にとって宇喜多も前田も父の仇、7歳にして戦争孤児となった少年は異国の地で何を思ったのでしょうか?以降は前田家当主に育てられ前田家に仕えることとなります。

脇田直賢

俸禄250石を得て当主前田利家の傍で育ち九兵衛と名乗り帰化しています。そして1605年頃に450石の家臣、脇田重俊の婿養子となり脇田直賢となります。永姫の勧めによるものだそうでおそらく良縁だったのでしょう。直賢は20歳になっていました。
そして大坂冬の陣(1614年)と翌年の夏の陣ではともに戦功を挙げて家禄1000石まで成り上ります。直賢はこの時30歳前後、文禄の役から22年、文禄の役の大将である豊臣家を倒し秀吉ではないけれども仇を打ったことになります。きっと心の中で亡き父に報告したことでしょう。もちろん前田家にも恩義を感じていたことでしょう。

玉泉園

直賢はその武勇もさることながら、文芸の方面でも秀でたものを持っていました。これは朝鮮で文官として高い位であった父の血によるものでしょうか。大和言葉を基本とした連歌で加賀の第一人者であったようです。連歌の第一人者ともなれば相当な教養があったはずです。そして自分の屋敷に池泉回遊式庭園を造園します。庭園の名前は、直賢を育ててくれた永姫の院号である玉泉院(1614年に利長没後)から取った玉泉園。庭園は直賢没後も約100年かけて造営し完成されました。日本三大名園である兼六園に隣接していますが、兼六園よりも100年以上前に完成しています。現在は県の名勝に指定されていて一般に公開されています。

まとめ

直賢はこの後も前田家に仕え町奉行など要職を務め最終的には1,500石まで家禄は増えました。そして晩年、1659年に隠居して名前を直賢から朝鮮時代の名前、如鉄と称しています。読みはどうだったのでしょうか?ジョテツそれともヨチョル?心の中では間違いなくヨチョルだったことでしょう。そして隠居の一年後、75歳で亡くなっています。長生きしましたね。

1607年に朝鮮通信使が再開されます。3回目までの通信使は回答兼刷還使と呼ばれ捕虜の送還が主目的となり、実際に7千人前後が朝鮮に帰還したとされています。おそらく直賢にもその情報は入っていたことでしょう。能登半島とは目と鼻の先にある朝鮮半島、望郷の念は常に持っていたに違いありません。それでも帰還しなかったのはなぜでしょう?1605年に日本で家族を持ち帰化したからでしょうか?
もし文禄・慶長の役がなければ、父の世襲で李氏朝鮮の高貴な身分のまま生涯を終えていたことでしょう。でも直賢は自らの才覚により異国の地でまずまずの成功した人生を送ることができました。まさに歴史に翻弄された人生だったわけですね。
因みに、直賢は豪姫の説明のところでも出てきた高山右近に勧められキリシタンとなっています。右近は国外追放令により1614年にフィリピンへ追放されていますが、直賢は隠れキリシタンとなっていました。玉泉園(つまり自宅)では隠れキリシタン灯篭を造っています。

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