江夏友賢 こうかゆうけん(1538年~1610年)

古代-江戸中期

戦国時代に明の時代の中国からやって来て九州の薩摩藩の島津氏に仕えた帰化人、儒者であり著名な易者でもあった江夏友賢をフォーカスします。

16世紀なかばの「北慮南倭」

ふくちゃん
ふくちゃん

江夏友賢は、エナツではなくコウカと読むんだよ。中国の福建省の出身。
中国名は黄友賢だけど、江夏黄氏が出自らしく、日本名を江夏にしたんだね。江夏は現在の湖北省、、、例の武漢の辺りだよ。友賢は北京で易者をやっていたから朱子学にも詳しくて優れた人だったんだ。

チッチャイ君
チッチャイ君

16世紀の半ば頃の明、都の北京は北方からモンゴルに攻め立てられたり、南は倭寇が沿岸部を荒らしまわったりと散々。それらが原因でこの頃は「北慮南倭」って呼ばれているのよ。
この頃の倭寇だと中国人の王直と言う倭寇のボスが有名かしら。当時の倭寇は日本人だけではなく中国人もいたのよ。

クレヤ君
クレヤ君

確か、、、武林治庵も杭州武林の出身だった。故郷を想って日本名にしたんだよね。友賢はどうして日本に来たのかな? ところで、、、王直って人、気になるニャン。

渡辺士式(武林治庵) 孟二寛
明の時代の中国から来た渡辺士式、士式はどうして日本に来たのでしょうか。そして孫の武林隆重は歴史にその名を刻むこととなります。

二つの来日説

明の都、先祖代々の業である易者を北京やっていた友賢、この頃北京は何度もモンゴルに攻撃されて、北京ばかりか自国も離れ、日本の鹿児島に流れ着いたという説。
もう一つは、日本の石碑に書かれているのだけど、1560年に薩摩の川内辺りを根城にしていた倭寇に捕らえられて日本に来たという説があります。

チョコット君
チョコット君

川内(せんだい)は、鹿児島県の北西部。2004年に薩摩川内市って甑(こしき)島も含め鹿児島県最大の面積の市になったよ。2つの説を合わせた説と言うのもあり得そうじゃない?

島津義弘と猫神神社

日本に来てからは、川内の入来院氏の庇護を受けてしばらく諸国を回っていたようですが、1682年に友賢の噂を聞きつけた西日本の雄、島津17代当主の島津義弘が友賢を家来とします。友賢22歳の時。

チッチャイ君
チッチャイ君

この直後に、跡継ぎのいない当主の入来院重豊が死去して島津から養子を迎えていて、入来院氏は島津一門になってしまったということも関係しているかしらね。

クレヤ君
クレヤ君

島津義弘って人は、戦国時代の英雄なんでしょ。
「鬼島津」ってあだ名だったんだよね。

チョコット君
チョコット君

朝鮮出兵の慶長の役で、7千人で敵3万人を撃破したり、日本軍の撤退時にも大活躍して、朝鮮側の英雄李舜臣を戦死させたり、鬼島津って恐れられたらしいよん。
そのため関ヶ原の合戦でも、もっと先の幕末の頃にも薩摩の島津の軍事力に相手側は心理的に威圧されたとか。

クレヤ君
クレヤ君

鬼島津、、、義弘、こわいニャン。

チョコット君
チョコット君

でも義弘は、朝鮮の役後には高野山に敵味方双方の供養塔を建てたり家臣をとても大切にしたので、当時殉死禁止令がでていたのだけど義弘の死で殉死者が13名も出たらしいよ。医術や学問も熱心で文化人だったみたいで、易や儒教にも熱心だったのよ。

チッチャイ君
チッチャイ君

義弘と言えば、鹿児島市の仙巌園の猫神神社!朝鮮の役で、瞳孔で時刻を知るために我らがニャンズ7匹を連れて行って無事生還した2匹を祀ったのが猫神神社。毎年時の記念日の6月10日には猫の長寿祈願と供養祭が行われるのよ。ふくちゃんにも行ってもらわないと!

ふくちゃん
ふくちゃん

行きたいんだけどねぇ、、、。

クレヤ君
クレヤ君

鬼じゃないね!義弘!良い人にゃぁ~

そして家来となった友賢は、義弘とともに従軍したようです。友賢は易の中でも特に占筮(せんぜい)と言って、50本の筮竹(竹ひごみたいなもの)を使って吉凶を占う易、、、を得意としていたようです。

チッチャイ君
チッチャイ君

様式は時代によっていろろとあるらしいけど、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」のそれかしら。易者による筮竹の陰、陽を示す組み合わせで占うそうよ。

クレヤ君
クレヤ君

いつの世の中も不条理なことばかりで、占いにすがりたくもなるよね。

鹿児島城(鶴丸城)と加治木屋形

1600年、関ヶ原の戦いで負けた責任を取って引退した義弘に代わって、18代当主となった義弘の実子で義弘の実兄に婿養子となっていた忠恒(ただつね)、友賢はこの忠恒にも仕えています。天下人の家康への脅威から、今までの内城(ないじょう)から新しい城の築城を検討します。そしてその縄張りを友賢に占ってもらっています。1601年のことで、すでに友賢は63歳になっています。

チョコット君
チョコット君

当時、お城の縄張りを占うとは、今で言うとマスタープランを作るということよね。本丸や二の丸はここで、曲輪(郭/くるわ)はどのようにして、お堀はどこにするとかを、友賢は筮竹の陰、陽を示す組み合わせを使って決めたのよね。

この鹿児島城(屋形の形状が鶴に似ているから別名は鶴丸城)、1604年に完成しますが実父の義弘からは、立地が海に近すぎるという理由で反対されています。

チョコット君
チョコット君

実父に似て、豪胆だった忠恒。でも父の義弘は、自分が死ぬまで薩摩藩の実権を握っていたことを考えると、義弘の反対を押し切って城を完成させた忠恒は、友賢を余程に信頼していたのかなぁ?

チッチャイ君
チッチャイ君

義弘の心配は、幕末の薩英戦争で現実のものとなったわ。英国軍艦に簡単に砲撃されしまったの。でも天守閣がなかったからお城だとは思われなかったみたいで、砲撃はそれほど受けずに済んだみたいよ。
因みに、忠恒は1606年に家康から偏諱(へんき・かたいみな)をうけて家久と名乗っているわ。

そして義弘は1607年、山城の加治木城の麓に加治木屋形を造り移住します。この屋形の縄張り占いを義弘は友賢に依頼します。当初、義弘は加治木城を改築する予定だったようですが、麓に場所を変更したようです。家康に睨まれたとか言われていますが、高齢(72歳)でさすがの義弘も山城では不便を感じたのか。そして友賢は「東の丸」「中の丸」の二区画からなる屋形のプランを提案し、義弘の終の棲家となります(1619年義弘没、享年84歳)。

クレヤ君
クレヤ君

友賢は69歳、義弘72歳。当時のことを考えると、二人とも他の人から見たら仙人のようだったんじゃない? でも楽しそうに縄張り図を見ている二人の姿が想像できそう。そういえば加治木の屋形は海から近いんだよね。

まとめ

江夏友賢はその後1610年、72歳で亡くなります。墓は実窓寺磧(カワラ)にあります。実窓寺は義弘の妻の菩提寺、ということはもちろん友賢は手厚く埋葬されたのでしょう。

チッチャイ君
チッチャイ君

朝鮮との文禄の役の後に、明国から沈惟敬(しんいけい)という和睦の使者が来日したのよ、そしてその時に友賢を見かけて「日本にいたのか!」と声をかけたらしいわ。それを聞いた豊臣秀吉は友賢を家来にと誘うの。でも友賢は「明の国では、賢臣二君に仕えず」と言って断ったらしいわ。

クレヤ君
クレヤ君

そんな言葉を義弘が聞いたら嬉し泣き。

江夏という名前は、鹿児島県に圧倒的に多い名前です。ウイリアム・ウィリスの回でも出てきましたね。そう彼の奥さんは江夏八重です。アルバートという息子さんがいてウイリアムとともにイギリスへ行ってしまいますが、後日母と劇的な再会を日本で遂げて宇利有平として帰化しています。きっと友賢の子孫でしょう。

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クレヤ君
クレヤ君

元阪神タイガースのエース江夏豊は?
あっ読みは”えなつ”だったか、、、。

チョコット君
チョコット君

江夏選手は母子家庭で、お母さんが鹿児島県いちき串木野市出身らしいから昔はコウカって名前だったかもね。

ふらりと来てみた日本?それとも囚われて来てしまった日本なのかは定かではありませんが、乱世の北京から逃れてきたのに、その日本もまた乱世、戦国時代の真っただ中。きっとがっかりしたはずです。それでも誠実で優秀な人だったのでしょう、その地域の覇者島津義弘と出会います。そのアクの強いボスに仕えたからこそ後世に名を残したのか、それとも賢臣ゆえに名を残せたのは必然か?これも今となってはわかりません。でも友賢の晩年は戦国の世も終わり、同年代の島津義弘の良き話し相手となって平穏に過ごせたのではないでしょうか。

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