ヤックス・スペックス(Jacques Specx)

古代-江戸中期

江戸初期、オランダ商館の初代館長。戦乱が終結し平和を模索し、禁教や海禁などを通して統一強化を進めている徳川幕府に入り込んだオランダ商人をフォーカスします。

初代オランダのカピタン:ヤックス・スペックス(1585年~1652年)

ふくちゃん
ふくちゃん

オランダとの最初の密な接点は、1600年に今の大分県に漂着したオランダ船のリーフデ号。関ヶ原の戦いの前に徳川家康とリーフデ号の乗組員が会ったのがきっかけだよ。

クレヤ君
クレヤ君

東京駅八重洲口の由来のヤンヨーステンが乗組員!

チョコット君
チョコット君

オランダ東インド会社の前身、マゼラン会社から1598年に5隻の船団で太平洋経由で日本などを目指したんだけど、最終的にはリーフデ号だけが日本に辿り着いたのね。100人以上いた乗組員も日本に上陸できたのは15人だけで、さらに立ち上がれたのは半分もいなかったらしく、その中に後の三浦按針やヤンヨーステンがいて、家康と会ったの。

クレヤ君
クレヤ君

過酷すぎにゃ、、、。まさに大冒険。

オランダ東インド会社:それまでにあったオランダの複数の商社が連合して1602年に世界で初めて設立された株式会社と言われています。なので正式名称は「オランダ連合東インド会社」。日本とは設立当初から馴染みが深く、会社の頭文字を取った「VOC」の社章は日本でも知られているのでは? 商業活動以外にも条約の締結権、交戦権それに植民地の経営権なども有していて、勅許会社の中の一つとされています。勅許会社とは国王などが承認した企業体で、英国が当時のロシアとの貿易を目的として1555年に設立されモスクワ会社が最初。

チョコット君
チョコット君

そのリーフデ号の乗組員、航海が想像以上に辛かったのか、漂着した大分(臼杵)の人たちの親切さもあったのか、ほとんどの人が日本での滞在を望んだらしいよ。帰国を望んだ人もいたのだけど、三浦按針のように家康に気に入られて留め置かれたり、ヤンヨーステンもその一人ね、朱印船貿易の途中で帰国のチャンスをうかがっていたけど、船が沈没したりで、結局は誰一人として祖国に戻れた乗組員はいなかったんだよ。

その東インド会社、名前からもわかるように日本を含めた東南アジア地域を商圏としていました。そしてオランダはスペインと独立戦争(八十年戦争)の真っ最中。スペインはカトリック、オランダはプロテスタント、ガチガチのライバル同士。日本との貿易を独占していたスペインが、日本にやってきたオランダ人を快く思うわけがありません。当時、英語やオランダ語を理解する日本人はおらず、宣教師たちに通訳させますが、まともな通訳をするはずもなく、二代目豊臣家の豊臣秀頼や五大老筆頭の家康にリーフデ号の乗組員は海賊なので処刑するように勧めます。しかし家康は何度かリーフデ号の乗組員たちと会ううちに、彼らの誠実な話しぶりと宣教ではなく純粋に貿易が来日目的であることを気に入り江戸に招き入れます。

クレヤ君
クレヤ君

ちょっとぉ、いつになったらヤックスが登場するのさ!ふくちゃん、前置き長いんだよね、昔っから。

ふくちゃん
ふくちゃん

も、もう少し、、。

時代は、関ヶ原の戦いの直前。家康は当時世界の最先端の武器と航海術それに外交術を持ったヨーロッパの新興国からの人物を簡単に処刑にはしませんでした。そして実際に関ヶ原の戦いでそれらの武器は使われたらようです。

クレヤ君
クレヤ君

本当に海賊だったら、処刑はいつでもできただろうしね。

そもそも家康は貿易にとても興味があったようで、政権樹立後の1604年に朱印船制度を確立して、翌年にリーフデ号の船長たちにオランダ国王への親書を持たせて、東インド会社の交易拠点であるパタニ(現マレーシアの北部)のオランダ総監マウリッツへ派遣しています。

チッチャイ君
チッチャイ君

親書への返書は、マウリッツをオランダ国王とするものを家康に渡しているのよ。そしてそれ以降、東インド会社の総監が「オランダ国王」ということにし続けたのよ。噓も方便ということね。

当初、東インド会社はスペインやポルトガルと争っていて、日本と交易する余力はありませんでした。しかし英国や仏との仲裁でスペインとの独立戦争の休戦交渉が始まり、その条件が「両国の勢力の現状維持」だったことから、オランダは休戦となる前に「勢力の現状」を拡大することを決定します。そして東南アジアの交易域拡大目的で派遣された東インド会社の艦隊の乗組員の一人として、ヤックス・スペックスが乗り込み1609年、平戸に向かいます。

クレヤ君
クレヤ君

やっと出てきたニャン、ヤックス、、、。

朱印状を下付

ヤックス・スペックスは1585年にオランダのドルドレヒト市で誕生。ドルドレヒトはホランド州最古の都市で、現在のアムステルダムやロッテルダムよりも当時は栄えていました。1572年にスペインからの独立を宣言した地でもあり、ヤックスは独立心旺盛な地で誕生したこととなります。

チョコット君
チョコット君

ホランドの綴りはHolland。ポルトガル語ではHolandaでHは発音しないから、日本人にはオランダって聞こえたんだよね。

まず1607年、11隻の艦隊がオランダを出航してバンテンへ向かいます。ヤックスはまだ22歳。そしてそこから2隻がヤックスを乗せて日本の平戸へ行き1609年に平戸に到着します。そして2人のオランダ人がマウリッツ総監の親書を持って駿府の家康に会いに行きます。すでに家康は大御所として隠居しています。この時に家康の通訳をしたのが、リーフデ号のメルキオール・ファン・サンテフォールト。1605年に家康の親書を持ってパタニへ行った人物です。

チョコット君
チョコット君

バンテンは、インドネシアのジャワ島北部にあって、1603年に東インド会社の商館ができているよ。今はアチェ州、津波で被害の遭ったところよね。1619年にはバンテンの東に有名なバタヴィア城砦を築いて拠点にしたよ。

クレヤ君
クレヤ君

バタヴィアって、日本では「ジャガタラ」って呼ばれていた!?

チョコット君
チョコット君

クレヤ君、正解! 現在のインドネシア首都のジャカルタ!今は首都移転問題とかあるけど? そしてジャガイモの語源。「じゃがたらお春さん」のお話も有名、、、ヤックスの娘サラとともにいつかフォーカスしにゃきゃ。

チッチャイ君
チッチャイ君

通訳を務めたメルキオールさん、パタニで職を見つけたかったらしいけど、見つけられず日本に戻ってきたの。その後ヤックスに家康を紹介したりもしたけど、結局は日本を追放されることになるの、この方も後でフォーカスしないとだわ。

家康はすぐに朱印状を作りました。それはオランダの来航と航行の安全を保障して商館設置の自由を与えたものです。その原本はオランダ国立公文書館に保存されています。スペインハプスブルグ家と新興国オランダの本格的な貿易戦争の始まりです。

平戸にオランダ商館設立

オランダは情報収集のこともあり、スペイン・ポルトガルの拠点である長崎に近い平戸に、民家を72戸分立ち退かせてオランダ商館を1609年に設立します。そして24歳の若きヤックスがカピタン/館長となります。

チョコット君
チョコット君

カピタン(Capitão)はポルトガル語で館長。オランダ語ではオッペルホーフト(Opperhoofd)で英語に直訳するとSupreme headでニュアンスでも日本では館長はカピタンと呼ばれました。スペイン・ポルトガル人は南蛮人でイギリス・オランダ人は紅毛人と呼び分けていたけどね。

クレヤ君
クレヤ君

イギリスもオランダもポルトガル語由来だよね

チョコット君
チョコット君

余談だけど、1609年にオランダ東インド会社は今のニューヨークを発見して、14年にニューネーデルランド(首都はニューアムステルダム)って名付けて領有を宣言したよ。

江戸時代に入り、貿易は南蛮船、ジャンク船、朱印船そして紅毛船も加わり東南アジアの海上で貿易競争が行われます。この頃の日本は主に中国の生糸や絹織物を輸入し銀を輸出していました。中国は鎖国をしていたので先述した国々の貿易船が中継していました。ヤックスの目的も日本の銀を仕入れることでした。当時、銀は世界の貿易通貨として流通していて、日本の銀は世界の1/3を産出していてしかも高品位で価値のあるものだったのです。そしてこの頃に発見された佐渡島の相川金銀山にヤックスや南蛮人は注目し争奪戦となります。

チョコット君
チョコット君

家康はスペインの最新の金銀精錬法(アマルガム法)を取り入れたかったんだよね。でもスペインは精錬法伝授の条件として布教を求めたのよね。

チッチャイ君
チッチャイ君

これに対してヤックスは、銀の取引条件に最新式の武器の供与を持ち掛け、さらに南蛮人の布教の最終目的は日本征服にあるとしきりに訴えたのよ。すでに将軍職を息子に譲っていたとは言え、大御所ととして実権を握っていた家康の最大の心配事は豊臣家に政権を奪われるのではないか?ということだったのよ。西国の大名はまだまだ豊臣家寄りだったし。その家康の心配事に付け込む作戦ね。

1613年に2代目カピタンでブラウエルルートと呼ばれる南アフリカを南下して大荒れの南極海付近を通ってジャカルタへ向かうルートを発見したブラウエルと交代しますが、翌14年に3代目館長としてヤックスが日本に復帰します。この前後には9年に岡本八大事件、12年に禁教令そして14年にバテレン追放令が出されます。そうした中、14年に方広寺鐘銘事件が起こり家康の豊臣家潰しが始まります。

クレヤ君
クレヤ君

方広寺の鐘銘の「国家安康」「君臣豊楽」に家康が難癖をつけたやつだね。

チッチャイ君
チッチャイ君

バテレン追放令で豊臣側はスペイン・ポルトガル宣教師に布教を許し、南蛮商人は大量の武器弾薬を提供、そしてキリシタンの元大名や武士達も味方につけたのよ。ヤックスは約束通りヨーロッパの最新最強の武器を家康に提供したわ。

クレヤ君
クレヤ君

まるでスペインとオランダの代理戦争にゃ。

大阪冬の陣

ヤックス29歳の時、大阪冬の陣勃発(1614年11月)。豊臣側はスペイン側から仕入れた大量の銃で攻勢して家康は苦戦しましたが、オランダから購入した半カノン砲などで本丸を砲撃して戦意喪失させ豊臣側に不利な和議を受け入れさせます。

チョコット君
チョコット君

大砲で優位に立つには、敵の大砲より射程距離の長い大砲を使えば良いのよね。戦艦大和を建造した理由もそうだったんだけど、、、。

クレヤ君
クレヤ君

オランダの思惑通り事が進んだって感じニャ。なんでスペイン側も高性能な大砲を豊臣側に提供しなかったのかな?

チッチャイ君
チッチャイ君

当時、日本は世界の中でも最強の軍事力を持っていたのよ。それに手先が器用で研究心も旺盛。そんな国に最新の武器を提供したら、将来植民地にと考えてる国に逆に拠点のフィリピンやマカオへ攻め込まれでもしたら、、、などと心配したのかもしれないわ。

チョコット君
チョコット君

戦国時代には火縄銃は50万丁もあって、当時世界最大の保有量だったらしいよ。銃の運用方法による考え方の違いもあったようだけど、日本の火縄銃は瞬発式と言ってヨーロッパや中国で主流だった緩発式と違って命中率が高かったよ。文禄・慶長の役では、その命中精度から明軍に「鳥銃」って恐れられたんだって。

クレヤ君
クレヤ君

豊臣家を滅ぼして、家康はホッとしたろうね。そしてヤックスも。

平山常陳事件

1620年(元和6年)、マニラから日本へ向けて出港していた平山常陳を船長とする朱印船が台湾沖で英国とオランダの船団に拿捕されます。英蘭は禁止されているスペインの宣教師を乗せていたことを理由に貨物を没収します。船長の平山は海賊行為だと幕府に訴え取り調べとなります。英のカピタン、リチャード・コックスとともにヤックスは、宣教師が乗っていたことを証明することとなり、平山ほか船員それに宣教師が斬首となった事件です。これによりスペインとキリシタンは幕府からの信頼をさらに失うこととなります。ヤックスは21年までカピタンとして日本に滞在し、東インド会社の総督に次ぐ地位としてバタビアへ転任します。
バタビアでは、平和になった日本で不要となった銃や日本刀、それに改易となって主のいなくなった武士たちを傭兵として商ったようです。

クレヤ君
クレヤ君

22歳で母国を離れて、、、今でいうと新卒。そして24歳で東インド会社の日本支店長に大抜擢。日本でも大活躍してバタビアへ35歳で部長!さらに不要になった武器を扱うとは、凄腕商社マンあxって感じかな。

チッチャイ君
チッチャイ君

そうね、家康を上手に取り込んでライバルを蹴落として、銀という国際通貨を手に入れて母国発展に十分すぎるほど貢献したわね。

まとめ

その後1627年、母国オランダに戻り、そして29年にバタビアの東インド会社総督となります。同年にはオランダが統治していた台湾で日本と揉めて平戸のオランダ商館閉鎖にまでなっていた、タイオワン事件(浜田弥兵衛事件)を上手くまとめて解決し32年に母国へ帰還します。すでに47歳となっていました。帰国後は西インド会社の理事となり1652年にアムステルダムで亡くなります。67歳でした。

チョコット君
チョコット君

タイオワン事件の収拾では、偽の手紙を見破り解決の糸口を見つけたという日本通のヤックスの面目躍如といったところです。

クレヤ君
クレヤ君

西インド会社は新大陸で活動するためにできた東インド会社の子会社みたいな感じだったんでしょ?ヤックスは子会社の役員に栄転したって感じなのかな?

チョコット君
チョコット君

西インド会社は成功というよりは失敗した会社みたいだけど、やっぱり新興国オランダはアジアでの活動で手一杯だったのかもね。

ふくちゃん
ふくちゃん

スペックスと日本人女性との間にできた娘のサラ・スペックスなどのお話も興味深いので、いつかフォーカスしますね。

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